キダーラ朝
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←402年以後 - 477年~500年の間 → (国旗) -
公用語 バクトリア語 首都 バクトラ、ペシャワール、タキシラ - クシャン・シャー
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xxxx年 - xxxx年 キダーラ xxxx年 - xxxx年 ピロ xxxx年 - xxxx年 バラフラーン xxxx年 - xxxx年 クグカス - 変遷
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不明 xxxx年xx月xx日
キダーラ朝(きだーらちょう、Kidarites)は、5世紀にバクトリアないし西北インドに存在したクシャーナ朝の後継国家[1]。
その存在は中国の歴史書(『魏書』、『北史』)や、プリスクスによる記述、西北インド出土のコインなどの断片的なものでしか知りえることができない[2]。
歴史
[編集]4世紀半ばにキダーラという者が匈奴(フン族)とともにバクトリアに移住したと推定される[3]。
402年以後[注釈 1][4]、バクトリアにてキダーラがキダーラ王朝を創始する。
440年頃[3]、キダーラはヒンドゥークシュ山脈を越え、ガンダーラ以北の5国を支配下に置く[5]。
エフタルの侵攻に遭い、バクトリアが占領され、キダーラは西へ逃れてカスピ海沿岸に別の亡命政権を建てる[5]。エフタルの侵攻を免れた西北インドの勢力は小月氏国となり、キダーラの子が統治する[5]。
キダーラの死後、子のクグカスがカスピ海沿岸のクシャーナの王となったが、468年頃にはサーサーン朝のペーローズ1世に滅ぼされた[5]。一方のガンダーラを中心とする小月氏国の王となったのはピロおよびバラフラーンであった[5]。
477年~500年の間に西北インドの小月氏国はエフタルによって滅ぼされる[5]。
『魏書』・『北史』の記述
[編集]その王、寄多羅(キダーラ)は勇武で兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を超え、南の北天竺に侵攻し、乾陁羅(ガンダーラ)より北五国を役属した。
— 『魏書』列伝第九十西域 大月氏国
キダーラ朝のコイン
[編集]貨幣にはキダーラ王朝の後継者と思われるピロ及びバラフラーンの名をもつ24の銀貨がある[2]。これらを含むキダーラ貨幣の様式をマーティンはサーサーン朝のシャープール2世(Shāpūr II、309年 - 379年)の中期の貨幣の模倣であるとし、カニンガムはバハラーム5世(Bahram V、420年 - 438年)、キュリエルはヤズデギルド2世(Yazdegerd II、438年 - 457年)の模倣としている[2]。この様に貨幣の様式論には主観的要素が入り得るので、年代を導き出す積極的資料にはなりにくく、キダーラ又はその後縫者が西北インドを支配したことを証拠立てるにとどまる[2]。榎一雄がこの貨幣の様式はヒンドゥー・クシュ以北におけるサーサーン朝文化の影響を示し、ブラーフミー文字によるインド語の銘文はヒンドゥー・クシュ以南の支配を示している点、『魏書』(『北史』)西域伝の寄多羅の貨幣たるに相慮しいと論じている[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ キダーラは,その勃興年代に関する大きな議論があり,未だ決着を見ていない。『魏書』西域伝にキダーラがトハーリスターンからインド方面へと展開したことが記されており,これが457年(あるいは437年)にもたらされた情報であることから,文献を重視する研究者は,この集団が勃興・展開したのは5世紀以降のことであると考える。一方,貨幣を重視する研究者は,カーブル近郊のテペ・マラーンジャーンで出土した一括埋納貨幣において,4世紀のサーサーン朝の諸王の貨幣と共伴する金貨の銘文をキダーラと読み,その勃興年代を4世紀後半とする。両説の当否は判明していないが,貨幣の銘文の読みに疑問が呈されていることから,後者の説を今後再検討しなければならない。
出典
[編集]参考資料
[編集]- 山田明爾『キダーラ・クシヤーンについて』(印度學佛教學研究11巻2号(通号22) 1963年3月)
- 宮本亮一(AA研共同研究員,京都大学)「クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動」(「「インド世界」の形成 フロンティア地域を視座として」(令和元年度第1回研究会))
外部リンク
[編集]- 宮本亮一「クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動」『「「インド世界」の形成 フロンティア地域を視座として」』、令和元年度第1回研究会、2019年9月16日。
- 影山悦子「ユーラシア東部における佩刀方法の変化について : エフタルの中央アジア支配の影響」『内陸アジア言語の研究』第30巻、中央ユーラシア学研究会、2015年7月25日、29-47頁、CRID 1050845762635259904、ISSN 13415670、NAID 120006492361。