カロライン・ハーシェル
カロライン・ハーシェル Caroline Herschel | |
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![]() Melchior Gommar Tielemanによる肖像画 | |
生誕 |
1750年3月16日 ドイツ, ハノーファー |
死没 |
1848年1月9日 ドイツ, ハノーファー |
研究分野 | 天文学 |
主な業績 | 星雲・彗星の発見 |
プロジェクト:人物伝 |
カロライン・ルクリーシア・ハーシェル(Caroline Lucretia Herschel、1750年3月16日 - 1848年1月9日)はドイツ生まれでイギリスで活躍した天文学者である。ウィリアム・ハーシェルの妹であり、兄の助手として天文観測を行い、自らも(35P)ハーシェル・リゴレー彗星などを発見した[1]。名前の読みは、ドイツ語ではカロリーネ・ルクレティア・ヘルシェルとなる。ジョン・ハーシェルの叔母にあたる。
生涯[編集]
ハノーファーで生まれた。1772年の秋、イギリスで音楽を教えていた兄ウィリアムの元に移り、兄の音楽の仕事と天文観測の両方を手伝った。声楽家としても評判を得て、バーミンガムのフェステバルで歌うことを求められたこともあった。1782年にウィリアムがジョージ3世から国王付天文官 (The King's Astronomer) に任命されると、バッキンガムシャー(現バークシャー)のダチェットに移住し、助手を務めた。1787年からはジョージ3世から助手としての報酬を得るようになり、イギリスで科学的な仕事で公的な報酬を得た最初の女性となった[2]。自らも小型のニュートン式望遠鏡で天空を眺め、そのなかで1783年に3つの星雲を発見し、1786年から1797年の間に8つの彗星を発見した。その中にはエンケ彗星など最初の発見者でないものも含まれているが、彗星を発見した最初の女性となった。1797年にフラムスティードの星図に記載されていない561の恒星を含む星表を発表した。
1822年にウィリアム・ハーシェルが没すると、ハノーファーに戻り1828年にウィリアムが1800年以降に発見した2500の星雲のカタログを完成させた。1828年に王立天文学会ゴールドメダルを受賞し、1835年にメアリー・サマヴィルとともに王立天文学会初の女性会員に選ばれた。1846年にはプロイセン王から科学金賞が授けられた。1848年、カロラインはハノーファーで97年の生涯を閉じた。
小惑星 (281) ルクレティアはカロライン・ハーシェルの功績を記念して彼女のセカンド・ネームから命名された。月のクレータC. Herschelも彼女の功績により命名された。