カストロ通り

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カストロ通り(カストロ地区)
カストロ通りとマーケット・ストリートの交差点を北側から臨む。奥に広がる町並みがカストロ地区。
愛称:The Castro, The Gay melting pot,
座標: 北緯37度45分42秒 西経122度26分06秒 / 北緯37.76171度 西経122.43512度 / 37.76171; -122.43512

カストロ通り (カストロ地区、英語: Castro District, The Castro) は、カリフォルニア州サンフランシスコユリーカ・バレー近郊にある地域の名称。

1960年代から70年代にかけては労働者階級の住民が多く住む地域であったが、その後アメリカ屈指のゲイタウンへと変化し、今日ではその最大規模の一つとされる。これまでにLGBTに関連した政治運動やイベントなどの舞台ともなり、LGBTコミュニティのシンボル的存在の一つとなっている。

位置[編集]

カストロ地区のゲイタウンは、カストロ通りとマーケット・ストリートの交差点から19丁目交差点までに至る商業地区を中心に広がっている。近年ではマーケット・ストリートに沿って東方面にチャーチ・ストリートに至るまでのエリアや、カストロ通りと並行して南北に走るチャーチ・ストリート(東側)とユーリカ・ストリート(西側)に挟まれたエリアにも拡大している。

また周囲のコロナ・ハイツ英語版ミッション・ディストリクト英語版ノー・バレー英語版ツインピークスハイト英語版といったエリアや、デュボス・トライアングル英語版やドローレス・ハイツといったエリアもカストロ地区に入ると考える人もいる。

カストロ通り自体は、前述のエリアから数ブロック北のディヴィサデロ・ストリートとウォーラー・ストリートの交差点を起点にノー・バレー方面に南下し、マーケット・ストリートや24丁目の商業地区を抜けた先の丘陵地帯(グレン・パーク)に差し掛かった所で蛇行した後に一旦途切れてしまう。その後グレン・パーク南側のサセックス・ストリートとビーミス・ストリートの接続点から再び始まり、チェネリー・ストリートとの交差点で終わっている。

歴史[編集]

通りの名称はホセ・カストロ英語版(メキシコ統治時代のアルタ・カリフォルニアの州知事代理で軍人)の名前を起源としている[1]

1950年代まで[編集]

現在の街区は Market Street Railway Company がユリーカ・バレーとダウンタウンを結ぶ路面電車の線路を敷設した1887年に作られたとされ、1891年には地区の西エリアに Caselli Mansion が建築された[2]

1910年代から20年代にかけて、カストロ地区には北欧系の住民が多く住み始めたことで「リトル・スカンジナビア」の愛称で知られるようになり、当時カストロ地区の先は "Norse Cove" (意味:ノルウェーのくぼみ)と呼ばれていた。この時代に営業を始めたフィンランドサウナが1986年まで営業を行っており、また現在 Swedish American Hall が建っているマーケット・ストリートと15丁目が交差する辺りにはスカンジナビア系船員の組合がかつて存在していた。この時代の名残りとして、カストロ通りとチャーチ・ストリートに挟まれたマーケット・ストリート沿いにはスカンジナビア式の半木骨造建物が今でも見られる。

1930年代にはアイルランド系の労働者階級の住民が住み始め、60年代中盤にかけて多く居住していた。

1941年にマーケット・ストリートから29丁目にかけてのカストロ通りを運行していたケーブルカーの線路が取り払われ、バス運行に切り替わった。

第二次世界大戦中のアメリカ陸軍は性的指向を理由に除隊させた男性同性愛者の軍人をサンフランシスコで放免し、その数は数千人を数えたとされる。その多くはカストロ地区に定住し、同地区に同性愛者が集まり始めた。

1960年〜70年代[編集]

1967年に近隣のハイト・アッシュベリー地区英語版での「サマー・オブ・ラブ」現象の盛り上がりを受けて、カストロ地区は同性愛者達の中心的な存在へと成長し、全米から数万人規模で中産階級の若者が集まり始めた。それまで「ユリーカ・バレー」として知られた地区の名前も、通りの名を冠したカストロ劇場英語版がオープンした後には「カストロ」として知られるようになる。1970年代には、この地区の中産階級の住民が郊外へ流出し始めたことで住宅相場が下がり、それまでサンフランシスコ市内で同性愛者達が集まる地区として最も栄えていたポルク・ガルチ英語版地区からの住民が流入するようになった。

1973年にはハーヴェイ・ミルクカストロカメラをオープン、また同性愛者の社会活動家として政治的な運動に関わり始めたことで、カストロ地区は同性愛者の集う場所というイメージを広めることとなった。

1970年代終わりには、当時の服装や習慣を指す「カストロ・クローン英語版」という言葉が誕生した。これは当時の同性愛者に人気の高かったスタイル(細いデニムジーンズに、黒やデザートサンド色のコンバット・ブーツ、きつめのTシャツ、口ひげや顎ひげ)のことを指し、 "Clone Canyon" とも呼ばれていた。この頃にはバーなどナイトライフの有名店がカストロ通りの18丁目からマーケット・ストリートにかけて存在していた。

1980年~[編集]

1980年代のAIDS/HIV禍はカストロ地区にも大きな影響を及ぼし、1984年初頭にはAIDSの拡散防止を目的にバスハウス英語版の取り締まりの厳格化を市当局が発表している。今日でもマーケット・ストリートやカストロ通りのキオスクには広告に混ざってセーファーセックスを呼びかけるポスターが見られる。

見所[編集]

マーケット・ストリート交差点付近[編集]

マーケット・ストリートと17丁目通りとの交差点角にある巨大なレインボーフラッグ

カストロ地区の北側入口に相当。17丁目通りの交差点も接続している。

18丁目交差点付近[編集]

18丁目通りの町並み。通り沿いの街灯にはゲイ・プライドを象徴するレインボーフラッグが下がっている[3][4][5]

18丁目の交差点は、マーチや抗議運動など多くの歴史的なイベントなどが発生した場所の一つ。

エリア広域・その他[編集]

カストロ通り20丁目交差点

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ San Francisco Streets Named for Pioneers”. The Virtual Museum of the City of San Francisco (Tuesday, 24 April 2007). 2010年12月11日閲覧。
  2. ^ このマンションは1906年のサンフランシスコ地震の被害を免れ、今日でも存在している。
  3. ^ Shilts, Randy (1982). The Mayor of Castro Street: The Life and Times of Harvey Milk, page 23. St. Martin's Press. ISBN 0-312-52330-0.
  4. ^ "Harvey Bernard Milk". Biography Resource Center Online. Gale Group, 1999. Reproduced in Biography Resource Center, Farmington Hills, Mich.: Gale, 2008.
  5. ^ "Harvey Bernard Milk". Encyclopedia of World Biography, 2nd ed. 17 Vols. Gale Research, 1998.
  6. ^ First GLBT History Museum in the United States Now Open in San Francisco’s Castro District (PDF)
  7. ^ サンフランシスコにLGBT歴史博物館が誕生
  8. ^ http://www.sotozen-net.or.jp/sotolink/foreign
  9. ^ Godfrey, Donal (2008). Gays and Grays. The Story of the inclusio of the Gay Community at Most Holy Redeemer Catholic Church in San Francisco. Lanham, Md: Lexington Books. ISBN 9780739119389. 

外部リンク[編集]