オフリドのクリメント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
オフリドの聖クリメント
13世紀 - 14世紀頃作成のイコン
亜使徒[1]成聖者[2]
他言語表記 古代教会スラヴ語:
Климє́нтъ Охрїдьскъ
ブルガリア語マケドニア語:
Свети Климент Охридски
生誕 840年[3]
マケドニアのどこか[3]
死没 916年[4]
オフリド[4]
崇敬する教派 正教会
記念日 7月27日ユリウス暦使用教会ではグレゴリオ暦8月9日に相当)[5]
11月25日ユリウス暦使用教会ではグレゴリオ暦12月8日に相当)[6]

オフリドのクリメント古代教会スラヴ語: Климє́нтъ Охрїдьскъ, ブルガリア語マケドニア語: Свети Климент Охридски, 840年頃 – 916年)は、聖キリル(キュリロス)聖メフォディ(メトディオス)の弟子であり、のちにオフリド主教となった人物。正教会聖人であり、亜使徒と呼ばれる。初めてスラヴ語で説教、著述活動を行った最初のブルガリアの主教であった[5]

生涯[編集]

モラヴィア宣教[編集]

キリルとメフォディの弟子の一人として、モラヴィアへの宣教に両師とともにあたっていた[7]

モラヴィアは当初、自らと同じくローマ教皇の管轄下に入るよう要求するフランク人からの圧力に抗して、コンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教)の管轄の下にスラヴ語奉神礼を採用し、キリルとメフォディ、および彼らの弟子達はスラヴ語奉神礼を使用しつつ、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下で宣教を行っていた[7]

当初はローマ教皇もモラヴィアにおけるスラヴ語奉神礼を容認していた。当時、未だ東西教会の分裂は確定して居なかったが、モラヴィアをローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教のいずれが管轄するかについて見解の相違が既に発生していた。メフォディ存命中は、平和裏にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教との間の調停が成立し、スラヴ語奉神礼も保たれた[7]

しかし885年4月6日にメフォディが永眠すると、弟子達の環境は一変する。大モラヴィアの支配者であったスヴァトプルク1世(Svatopluk I)を補佐するためにローマ教皇から送られていたニトラ司教ヴィヒングは、かねてよりキリルとメフォディおよび彼らの業績であるスラヴ語奉神礼を攻撃していたが、メフォディの永眠後直ちにローマ教皇のもとに走り、教皇ステファヌス6世からメフォディとスラヴ語奉神礼を非難する文書と、自身をモラヴィア首都大司教とする命令を得てモラヴィアに戻ると、聖メフォディの弟子達に弾圧を加えた。弟子達は捕えられて奴隷に売られるか流刑に処された[7]。クリメントもまたヴェネツィアの奴隷市場に売られたが、東ローマ帝国の駐ヴェネツィア大使によって買い戻され、コンスタンディヌーポリに送られた[5]

のちにヴィヒングはスヴァトプルク1世により追放されるが、フランクの影響が強まったモラヴィアは、ローマ教会(のちのローマ・カトリック)の勢力下に入っていくこととなった[7][8]

ブルガリア・マケドニア宣教[編集]

聖クリメント・聖パンテレイモン聖堂内にある、オフリドの聖クリメントの不朽体を納めた棺
ブルガリアのソフィア大学内にある、オフリドの聖クリメントのステンドグラス

クリメントがコンスタンディヌーポリに送られた頃、ブルガリア帝国ボリス1世は、キリルとメフォディのように、スラヴ語によって情熱的に宣教を行う人材を切望していた。モラヴィアから離散したメフォディの弟子たちはブルガリアに迎えられ、その中にはクリメントも含まれていた。こうしてブルガリアはスラヴ語奉神礼を採用することとなった。クリメントは南西マケドニアに位置するクトゥミチェヴィツァКутмичевица)に送られ[5]、のちにオフリド主教となった[2]

クリメントはブルガリアにおいて教育者として精力的に働き、膨大な生徒にスラヴ語の読み書きを教えた。その数は一説には後に聖職者となった者だけでも3500人を下らないだろうと言われている。クリメントは生涯かけてスラヴ人に聖職者を組織的に供給し続けた。またクリメントは、ギリシャ語文献のスラヴ語への翻訳のみならず、スラヴ語による著述活動を初めて行い(キリルとメフォディの活動は翻訳にとどまった)、スラヴ語の精神的著作における最初期の作者となった[5]

晩年には体の衰えとともに主教職を辞することをシメオン1世に願い出たが、慰留を受けて職になおとどまった。その後しばらくして、オフリド主教座から退くと、自身がオフリドに建立した聖パンテレイモン修道院に引退した。ここでも翻訳・著述活動が続けられた[5]

916年、永眠。遺体は聖パンテレイモン修道院に埋葬された。その著作の多くはロシア語にも翻訳され、ロシアでも広く読まれている[5]

脚注[編集]

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、オフリドのクリメントに関するカテゴリがあります。

外部リンク[編集]