エカチェリーナ・フルツェワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
エカチェリーナ・フルツェワ
Екатерина Фурцева
Yekaterina Furtseva 1964.jpg
エカチェリーナ・フルツェワ、1964年
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦文化大臣
任期
1960年5月4日 – 1974年10月24日
総理 ニキータ・フルシチョフ
アレクセイ・コスイギン
前任者 ニコライ・ミハイロフ
後任者 ピョートル・デミチェフ英語版ロシア語版
モスクワ市党委員会第一書記
任期
1954年11月17日 – 1957年6月30日
前任者 イワン・カピトノフ
後任者 ウラジーミル・ウスチーノフ
第20期幹部会会員
任期
1957年6月29日 – 1961年10月31日
第20期幹部会会員候補
任期
1956年2月27日 – 1957年6月29日
第20期書記局員
任期
1956年2月27日 – 1960年5月4日
個人情報
生誕 (1910-11-24) 1910年11月24日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国トヴェリ県ヴイシニー・ヴォロチョーク
死没 (1974-10-24) 1974年10月24日(満63歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦Flag of the Russian SFSR.svg ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
政党 ソビエト連邦共産党
専業 シビルサーバント

エカチェリーナ・フルツェワロシア語: Екатерина Алексеевна Фурцева; 1910年11月24日 - 1974年10月24日)は、ソ連の政治家。ソ連最初の女性政治局員文化大臣も務めた。ソ連の政治史上最高位にあった女性。

経歴[編集]

1940年代に工場労働者として働いていたところを見出され、政治家としてのキャリアを積んでいく。

スターリン時代の1952年、第19回ソ連共産党大会で演説を行う。この大会で共産党中央委員会の幹部会候補に選ばれる。1957年からソ連共産党政治局員となり、ソ連史上初めての女性政治局員となる。フルツェワの出世はフルシチョフ第一書記に負うところが大きく、これに対しフルツェワは、1957年の反党グループ事件の際にフルシチョフを積極的に支持することで応えた。

政治局員となったフルツェワは駐ユーゴスラビア・ソ連大使のニコライ・フィリュービンen:Nikolay Firyubin)と恋仲に落ち、週末に頻繁にユーゴスラビアに出かけ、政治局の中で噂を呼んだ。2人は最終的に結婚し、フィリュービンが外務次官となってモスクワに落ち着くものの、その頃には2人の関係は冷めていた。

1960年、友人への電話の中でフルシチョフを批判したのが盗聴され、フルシチョフの知るところとなった。怒ったフルシチョフは翌年フルツェワを政治局メンバーからはずし、閑職だった文化大臣の座に追いやった。文化大臣となったフルツェワは、自分の采配で劇場や映画のプログラムが変えられることに快感を覚えるようになり、その後14年間のソ連の文化政策を牛耳った。政策は、フルツェワの個人的好みや交友関係に振り回され、国民や芸術家から不興を買い、数多くの政治ジョークを残した。フルツェワは、自身の名前と過去の女帝の名前をもじってエカチェリーナ3世と揶揄されるようにまでなっていた。その一方、社会主義社会においてとかく硬直的になりがちだった文化政策がフルツェワのおかげで豊かになったとする評価もあり、その評価は毀誉褒貶が激しい。

リュドミラ・ズィキナなどの友人の話では、晩年のフルツェワは夫との関係も冷え込みアルコール中毒になっていた。1974年、汚職の捜査対象で取調べを受け、その後まもなく亡くなった。自殺したと見られている。

ノヴォデヴィチ修道院の墓地に眠っている。

公職
先代:
ニコライ・ミハイロフ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦文化大臣
1960年 - 1974年
次代:
ピョートル・デミチェフ英語版ロシア語版