ウィリアム・パトリック・クラーク

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ウィリアム・パトリック・クラーク

ウィリアム・パトリック・クラークWilliam Patrick Clark1931年10月23日 - 2013年8月10日)は、アメリカ合衆国政治家ロナルド・レーガン大統領の下で1981年から1982年まで国務副長官を、1982年から1983年まで国家安全保障問題担当大統領補佐官を、1983年から1985年まで内務長官を務めた。

生涯[編集]

1931年10月23日、クラークはカリフォルニア州オックスナードにおいて誕生した。クラークはヴィラノヴァ私立学校で学び、スタンフォード大学サンタクララ大学を卒業した。第二次世界大戦終戦後の1953年、クラークはアメリカ合衆国陸軍の対諜報部隊に参加し、西ヨーロッパにおいて活動を行った。クラークは1955年に合衆国に帰国し、ロヨラ法科大学院1956年から1958年まで法律を学んだ。クラークはまた、大学院在学中に保険の支払額査定人としても働き、1958年にカリフォルニア州弁護士協会から弁護士として認可を受けた。

クラークは1959年に法律事務所クラーク・コール・フェアフィールド社を設立し、共同経営者として弁護士業を開業した。1963年からはクラークの一族が所有するクラーク・ランド・アンド・キャトル社でも社長を務めた。

1966年ロナルド・レーガンカリフォルニア州知事に当選すると、クラークはレーガンの補佐官となった。クラークは1967年に首席補佐官に昇格し、1969年までレーガンを支援した。1969年、クラークはレーガンからサンルイスオビスポ郡の州高等裁判所判事に任命された。クラークは1971年に控訴裁判所判事に任命され、1973年にカリフォルニア州最高裁判所判事となった。クラークは州最高裁判所判事を1981年まで務めた。

1981年3月にロナルド・レーガンが大統領に就任すると、クラークは国務副長官に任命された。1982年2月、クラークは国家安全保障問題担当大統領補佐官となり、国家安全保障会議を統括した。クラークは1983年11月内務長官となった。クラークは1985年2月に内務長官を辞任してレーガン政権を離れた。

レーガン政権を離れた後、クラークは核兵器計画管理作業部会の議長となった。クラークは国防総省で長期統合戦略委員会の委員も務め、また大統領特使としてナバホ族委員会およびホピ族委員会で議長も務めた。クラークはロナルド・レーガン大統領図書館の理事も務めた。

2013年8月10日、カリフォルニア州の自宅で死去。81歳没[1]

脚注[編集]

  1. ^ W・クラーク氏死去 元米大統領補佐官 MSN産経ニュース 2013年8月13日

外部リンク[編集]

公職
先代:
ウォーレン・クリストファー
アメリカ合衆国国務副長官
1981年3月25日 - 1982年2月9日
次代:
ウォルター・ジョン・ストーセル
先代:
リチャード・アレン
アメリカ国家安全保障問題担当大統領補佐官
1982年1月4日 - 1983年10月17日
次代:
ロバート・マクファーレン
先代:
ジェイムズ・ワット
アメリカ合衆国内務長官
1983年11月18日 - 1985年2月7日
次代:
ドナルド・ホーデル