アンヌ・マリー・マルティノッジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンヌ・マリー・マルティノッジ
Anne Marie Martinozzi

称号 コンティ公妃
出生 1637年
教皇領ローマ
死去 1672年2月4日
フランス王国パリ
配偶者 コンティ公アルマン
子女 ルイ・アルマン
フランソワ・ルイ
家名 マルティノッツィ家
父親 ファーノ方伯ジェローラモ・マルティノッツィ
母親 ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニ
テンプレートを表示

アンヌ・マリー・マルティノッジAnne Marie Martinozzi, princesse de Conti, 1637年 - 1672年2月4日)は、コンティ公アルマンの妻。イタリア語名アンナ・マリーア・マルティノッツィ。いわゆる「マザリネット」の一人である。

生涯[編集]

ファーノ方伯ジェローラモ・マルティノッツィと、妻ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニの長女として、ローマで生まれた。妹はモデナ公妃となったラウラ。母の妹ジェローラマ・マッツァリーニの生んだ娘たち、ラウラマリーアオリンピアオルテンシアマリーア・アンナは従姉妹にあたる。アンヌ・マリーと従姉妹たちは、ルイ14世の宰相だった叔父マザラン枢機卿の持ち駒のように、政策の道具として王侯貴族へ嫁いだ。アンヌ・マリーは、フロンドの乱で叛乱側に加わっていたアルマンが、マザランと和解した際にその証として、縁組みが整えられた。1654年、アンヌ・マリーは60万リーヴルの持参金付きでアルマンと結婚した。2人は2子をもうけた。

夫アルマンが1666年に急死後、修道院に入った。子供たちは父方の伯母ロングヴィル公爵夫人アンヌ・ジュヌヴィエーヴや、伯父コンデ公ルイ2世の元で教育された。