コンテンツにスキップ

オリンピア・マンチーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オリンピア・マンチーニ
Olympia Mancini

称号 ソワソン伯妃
出生 1638年
ローマ
死去 1708年10月9日
配偶者 ソワソン伯ウジェーヌ・モーリス・ド・サヴォワ
子女 本文参照
父親 ミケーレ・マンチーニ
母親 ジェローラマ・マザリーニ
テンプレートを表示
オリンピア・マンチーニ 1700年

オリンピア・マンチーニ(Olympia Mancini, 1638年 - 1708年10月9日)は、ソワソン伯ウジェーヌ・モーリス・ド・サヴォワの妻。フランスルイ14世の愛妾でもあった。フランス語名はオランプ(Olympe)。

生涯

[編集]

ミケーレ・マンチーニ男爵と妻ジェローラマ・マザリーニの次女として、ローマで生まれた。1650年に父が亡くなると、母はフランスにいる兄ジュール・マザラン枢機卿を頼ってパリへ移り住んだ。娘達に玉の輿を望んだ母だったが、美しいマンチーニ姉妹(長女ラウラ、三女マリー、四女オルタンス、五女マリー・アンヌ)は、従姉妹にあたるマルティノッツィ姉妹と共に『マザリネット』(Mazarinettes)と呼ばれてもてはやされ、王侯貴族の関心を引いたのだった。彼女は王弟オルレアン公フィリップ1世の妻アンリエットと仲が良かった。

1657年2月、ソワソン伯ウジェーヌと結婚。8子を生むが、その幾人かはルイ14世との子ではないかと言われている。

  • ルイ・トマ(1657年 - 1702年) - ソワソン伯
  • フィリップ(1659年 - 1693年) - 僧
  • ルイ・ジュール(1660年 - 1683年) - 軍人となり、対オスマン帝国戦で戦死
  • エマニュエル・フィリベール(1662年 - 1676年) - ドルー伯
  • ウジェーヌ(1663年 - 1736年) - オーストリアへ渡り軍人となった。オイゲン公として知られる。
  • マリー・ジャンヌ(1665年 - 1736年)
  • ルイーズ・フィリベール(1667年 - 1726年)
  • フランソワーズ(1668年 - 1671年)

1679年、オリンピアはラ・ヴォワザンに依頼してルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを毒殺しようとしたと告発された。その後、夫やスペイン王妃マリー・ルイーズ・ドルレアンを毒殺したと疑われ、1680年1月23日に宮廷を去るよう命じられている。潔白を主張しながらブリュッセルへ移った。ブリュッセルでは音楽家のピエトロ・アントニオ・フィオッコアンリ・デマレのパトロンになっている。後に姉妹マリーとオルタンスとスペイン・イングランドを旅行しているが、フランスに戻らぬまま1708年に死去した。