アンドリュー・ワイエス

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アンドリュー・ワイエス
生誕 1917年7月12日
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
アンドリュー・ワイエス(2007年)

アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth,1917年7月12日 - 2009年1月16日)は、20世紀アメリカ画家アメリカン・リアリズムの代表的画家であり、古き良き時代のアメリカ中西部の田舎に生きる人々を、鉛筆、水彩、テンペラ、ドライブラシなどで詩情豊かに描く。彼の確かなデッサン力とテクニックは、20世紀美術の写実表現の系譜に大きな位置を占めている。アメリカの国民的画家といえる。父は挿絵画家、ニューウェル・コンヴァース・ ワイエス。(N.C.ワイエス)

経歴[編集]

1917年、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれる。姉3人に兄1人の5人兄弟の末子で、子供たちは幼い頃から絵を描いた。アンドリューも水彩を習ったり、ペンとインクで小説の挿絵を描いたりしていた。しかし当時は姉たちが才能を見せていたため、彼は家族の中で孤立感を抱いた。心身ともに虚弱であったワイエスは、ほとんど学校教育を受けず、家庭教師から読み書きを習った。

1923年 小学校に入学するが神経衰弱となり2週間で退学。家庭教師について読み書きを学んだ。1926年ごろから水彩画を描くようになった。

1932年、15歳になると近所に住むカーナー夫妻の絵を描くようになり、父のアトリエでも仕事を始めた。

1937年 ニューヨークのマクベス・ギャラリーで初めての個展を開き、いきなり完売。

1938年 義兄よりテンペラ画を習う。

1939年 第二次大戦で入隊を志願するが、身体が弱かったために不許可になった。同年、妻となる女性ベッツィ・マール・ジェイムズに出会う。

1940年 結婚。この年、最年少でアメリカ水彩画協会の会員となる。

1943年 長男ニコラスが誕生。

1945年 父N.C.ワイエスと3歳の甥が乗った車が列車と衝突事故を起こし、二人とも死亡した。

1946年 次男ジェイムズが誕生。彼は後に祖父や父と同じく、画家となった。

1947年 アメリカ美術文芸アカデミーとニューヨーク国立美術文芸協会より功労賞受賞。

1950年 結核のため、片肺切除する手術を受ける。

1954年 コルビー・カレッジから名誉博士号を授与される。以降、数多くの賞を受ける。

1965年 父と次男と親子三代の展覧会を開催。後にワイエス家の展覧会は度々開催された

1959年 フィラデルフィア美術館より芸術祭賞受賞。

1963年 大統領より、メダル・オブ・ドリーム(自由勲章)受賞。 全米芸術賞受賞。

1966年 ペンシルヴェニア美術館にて大回顧展開催。

1976年 ニューヨークのメトロポリタン美術館で展覧会。

1988年 アメリカ合衆国議会よりゴールド・メダル大統領賞に推薦され90年に授与。

1995年 オルソン・ハウスが文化財史跡に登録される。

2007年 アメリカ大統領より芸術勲章を贈られる。

2009年1月16日、ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外チャッズ・フォードにある自宅で死去した。91歳。

ワイエスの対象とモデル[編集]

ワイエスは自宅のある生地チャッズ・フォードと、別荘のあるメイン州クッシングの2つの場所以外にはほとんど旅行もせず、彼の作品はほとんどすべて、この2つの場所の風景と、そこに暮らす人々とがテーマになっている。

そこに「森の生活」で知られる詩人・哲学者ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817~1862)の影響を見ることが出来る。父N.C.ワイエスに「釣りをするソロー」(1936)の作品がある。

1940年 妻に紹介され別荘の近くに住んでいたオルソン家のクリスティーナとアルヴァロ・オルソン姉弟をモデルに描き始める。代表作『クリスティーナの世界』に登場している。生来病弱で孤独に育ったワイエスは、この、ポリオで足が不自由な女性が、何もかも自分の力でやってのける生命力に感動し、出会いの時からその死まで30年に亘ってこの女性を描き続けた。姉弟の住んでいたオルソンハウスは後に文化財史跡となった。 同じころ、友人のウォルター・アンダーソンをモデルにした。彼はフィンランド人とネイティヴ・アメリカンの混血で、「ガニング・ロックス」(1966)などに描かれている。その後50年あまりもモデルを務めた。

1945年(1932年とも)より1975年まで30年にわたり、自宅の隣家の農場主アンナ・カーナーとカール・カーナー夫妻を描き続ける。

1967年 クリスマス・イヴにオルソン姉弟の弟アルヴァロが死去。

1968年 1月27日アルヴァロを追うようにクリスティーナ・オルソンが死去。彼女は200点以上もの作品のモデルになった。 クリスティーナが他界すると、ワイエスは彼女の葬儀で出会った少女を次のモデルに決めた。それは近所に住む14歳の少女シリ・エリクソンで、彼女はオルソン姉弟とは対照的に若く生き生きとしていた。シリの成長と、カーナー夫妻の老いを描いて数年が経つと、今度はカール・カーナーが病に倒れた。

1971年、バトンを繋ぐように、カール・カーナーの看病に来た近所のドイツ系の農婦ヘルガ・エステートが次のモデルに選ばれた。1985年までにその画は240点にものぼったが、いっさい公表されなかった。ヘルガとの関係は「世紀の密会」としてスキャンダラスに報道された。 シリの連作も、シリが法的に成人に達するまで発表しなかった。

1979年 幼年期より数多くモデルとなったカーナー農場のカール・カーナーが亡くなる。

1985年 <ヘルガ・シリーズ>が初めて雑誌に掲載され、存在が知られるようになった。

1997年 若い頃よりモデルにしていたウォルター・アンダーソンが死去。

1997年 カーナー農場で多くの作品のモデルを務めたアンナ・カーナーが亡くなる。[1]

父親がA.ワイエスに与えた影響[編集]

ワイエスの父は、ワイエスに絵画技法を徹底的に教えた。 そこにあるものを正確に描写するように指導し、その次は見なくても「存在する」かのように描けるようにした。

トマス・ホーヴィングとの対話集より引用。以下、Q (質問者:ホヴィング) とA (アンドリュー・ワイエス)

Q: 絵を描き始めたきっかけは?どのようにして絵描きになられたのですか?あなたの最初の頃の思い出は何ですか?

A: そうだね、背後に父の挿絵の影響というものが多少あったし、時代に逆行することも学んだと思う。ほとんどの人は最初、基本に忠実と思い、伝統様式の中でそれが正しいことだと認識し、過度に尊重してしまう傾向にあるけれど、私はそれはまったく逆のことから始めた。―粗野で。自由で、そして爆発的でさえあった。

その父親が自動車に乗っているときに列車と衝突し亡くなったとき、ワイエスは多大な精神的ショックをうける。父親の死から半年後に描かれた『1946年の冬』は、丘から少年が駆け下りてくる瞬間的な絵画だが、少年は凍りついたように画面に静止し鑑賞者と視線が交わることはない。この作品は、父親が亡くなった1か月後に事故現場ちかくで水彩画に取り組んでいたワイエスの前を、軍服にパイロット帽をかぶった少年が駆け下りてきたため制作された。少年が視線を向ける進路の先は画面左側であり、少年がどこに向かっているのかは鑑賞者には全く想像がつかない。

ヘルガをめぐるゴシップ[編集]

ヘルガをモデルに15年にわたって240点もの作品が描かれたいたことは、有能な秘書であった妻ベッツイも、ヘルガの夫も知らなかった。これは15年もの密会としてスキャンダラスに報道された。[2] ワイエスが始めてヘルガを鉛筆でスケッチしたとき彼女はすでに38歳であった。ワイエスは当時53歳だった。ヘルガは若くもないし、美しいともいえなかった。 しかしワイエスは彼女の内面からにじみ出るなにものかに魅かれたのだった。それはワイエスによって描かれたヘルガを見れば明らかである。また彼が見栄えのしないヘルガを描き続けたのは、彼女が辛抱強く、寒い戸外に立たせても雪や風に不平を言うことがなかったし、屋内では命じられたポーズを忠実に守り続けたからだった。

同一のモデルをさまざまなスタイルで240点も描き続けたのは、名もない一人の中年女性にも無尽蔵ともいえる魅力が潜んでいたからであった。

「ページ・ボーイ」では沈鬱で禁欲的なヘルガが描かれている。しかし、「恋人たち」と題するヌードでは、ヘルガは豊満な肉体を見せている。さらに同じ裸体でも「仮収容所」のように背面から描くと、また、別の魅力がある。 ヘルガシリーズは、ヘルガの年齢や風貌の関係もあって、裸体を除くと全体として重くやや暗い感じがする。 [3]

15年もの間、秘密にしていた理由について、妻ベッツィが、ワイエスが異性のヌードを描くとき「私に見えないところでやって」と言ったためだともいわれているが、それが15年もの間、秘密にしていた理由であろうか。

「ワイエスの描くヘルガ像からみて、ワイエスとヘルガの肉体関係を想像することは難しい。ワイエスの画はヘルガの老いに対してもあまりにもリアルである。そこには馴れ合い的な美化は見られない。しかし秘密の関係という事が二人をより緊密にさせることが出来る。つまり秘密にしていた真の理由はヘルガをあるがままにして置きたかったと考えることが、もっとも合理的・芸術的な解釈である。ヘルガがワイエスのモデルと知られることは、二人の平穏な関係を乱すことになることはいうまでない。こうして名作ヘルガシリーズが生まれたのである。」という指摘もある。([4]

代表作[編集]

  • 1946年の冬 (1946) テンペラ・板 79.7×121.9cm ノース・カロライナ美術館蔵
  • クリスティーナの世界 (1948) ニューヨーク近代美術館
  • 海からの風 (1947) ワシントン・ナショナル・ギャラリー
  • 踏みつけられた草 (1951) テンペラ・板 50.8×46.3cm ワイエス夫妻蔵
  • アルヴァロとクリスティーナ (1968) 水彩 58×74cm ウィリアム・A・ファーンズワース美術館(ロックランド、アメリカ)蔵
  • 松ぼっくり男爵 (1976) テンペラ・板 80×80cm ブランデーワインリバー美術館蔵

出典[編集]

  • 『アンドリュー・ワイエス展図録』 1974年、日本経済新聞社
  • 『週刊朝日百科 世界の美術67』
  • 『ワイエス画集 カーナー牧場1944-1975』リブロポート (1981年)
  • 『ワイエス画集2クリスチーナの世界』リブロポート(1983年)
  • 『ワイエス画集3ヘルガ』リブロポート (1987年5月) ISBN 978-4845702701
  • ジェイムズ・H.ダフ/トマス・ホーヴィング『ワイエス画集4アメリカン・ヴィジョン ワイエス芸術の3代』リブロポート(1988年4月)ISBN 978-4845703258
  • 『現代美術3ワイエス』講談社(1993年)
  • 『Andrew Wyeth』Bulfinch (1998年9月)
  • 『図録アンドリュー・ワイエス水彩素描展 丸沼芸術の森所蔵』

脚注[編集]

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  1. ^ http://tokyowardrobe.com/archives/10465
  2. ^ 『ワイエス画集3ベルガ』
  3. ^ http://tokyowardrobe.com/archives/10465 東京ワードローブ「ワイエス-世界一有名な密会-」
  4. ^ 鴎座俳句会と松田ひろむの広場

関連項目[編集]

外部リンク[編集]