アレクサンドル・ブルイギン

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アレクサンドル・ブルイギン

アレクサンドル・グリゴリエヴィチ・ブルイギンAlexander Grigoryevich Bulygin:Алекса́ндр Григо́рьевич Булы́гин 、1851年8月6日 - 1919年9月5日)は、帝政ロシア政治家ニコライ2世の時代に内務大臣を務めた。

人物・略歴[編集]

1851年8月6日生まれ。1905年1月20日、相次ぐ農村暴動やストライキの責任を取り辞任したピョートル・スヴャトポルク=ミルスキー公爵の後任として内務大臣に任命される[1]。 ブルイギンの業績として最も注目されるのが、俗に「プルイギン・ドゥーマ法」「ブルイギン憲法」ないし「ブルイギン宣言」と呼ばれる1905年8月に発布された勅令である[2]。宣言の内容は「ツァーリを輔弼する」ための諮問機関としての議会の創設、信教の自由、ポーランド人に対するポーランド語の使用許可、農民の弁済額の減額を認めるというものであった[2]。しかし、国民は議会の権限の小ささと、選挙権に制限が加えられていることに幻滅し、騒乱はさらに激化した[2]。10月にはゼネストが起きる事態にまで発展したため、10月17日内相の職から去らざるを得なかった。

ロシア革命後の1919年9月5日チェーカーにより逮捕され、銃殺された。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 高田和夫 著「第9章 1905年革命」、田中, 陽児倉持, 俊一和田, 春樹 編『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4 

関連項目[編集]

先代
スヴャトポルク=ミルスキー
ロシア帝国内務大臣
1905年2月-1905年10月17日
次代
ピョートル・ドゥルノヴォ