アルブレヒト・フォン・プロイセン (1809-1872)

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アルブレヒト・フォン・プロイセン
Albrecht von Preußen

出生 (1809-10-04) 1809年10月4日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ケーニヒスベルク
死去 (1872-10-14) 1872年10月14日(63歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン
埋葬 ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国シャルロッテンブルク宮殿内霊廟
配偶者 マリアンネ・ファン・オラニエ=ナッサウ
  ホーエナウ伯爵夫人ロザーリエ・フォン・ラオホ
子女 一覧参照
家名 ホーエンツォレルン家
父親 プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世
母親 ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
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アルブレヒト・フォン・プロイセン(Albrecht von Preußen, 1809年10月4日 - 1872年10月14日)は、プロイセン王国の王族・軍人。上級大将。全名はフリードリヒ・ハインリヒ・アルブレヒトFriedrich Heinrich Albrecht)。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の五男で、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世ヴィルヘルム1世の弟。

生涯[編集]

1809年10月4日、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とその妃であったメクレンブルク=シュトレーリッツカール2世(後の大公)の娘ルイーゼ(1776年 - 1810年)の間に第九子(末子)。ナポレオンの侵攻によって王家が亡命していたケーニヒスベルク(現カリーニングラード)で生まれた。

アルブレヒトは1872年10月14日ベルリンで死去した。ベルリンの目抜き通りの一つニーダーキルヒナー通りNiederkirchnerstraße)の旧名プリンツ・アルブレヒト通り(Prinz-Albrecht-Straße)は彼の名にちなんだものであった。

子女[編集]

アルブレヒトは1830年9月14日ハーグオランダ王ヴィレム1世の王女マリアンネ(1810年 - 1883年)と結婚した。彼女との間には以下の一男三女をもうけた。

マリアンネと1849年に離婚したのち、1853年6月13日にアルブレヒトはホーエナウ伯爵夫人ロザーリエ・フォン・ラオホ(Rosalie von Rauch, 1820年 - 1879年)と貴賎結婚した。後妻との間には以下の二男をもうけた。