アリ・マフディ・ムハンマド

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アリ・マフディ・ムハンマド
علي مهدي محمد
Ali4th.jpg

任期 1991年1月29日1997年1月3日
首相 ウマル・アルテ・ガリーブ

出生 1939年
イタリア王国の旗 イタリア領ソマリランドヴィラッジョ・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ
政党 統一ソマリ会議

アリ・マフディ・ムハンマドソマリ語: Cali Mahdi Maxamed, アラビア語: علي مهدي محمد‎, 英語: Ali Mahdi Muhammad1939年 - )はソマリア実業家、政治家。ソマリア第3代大統領モハメド・シアド・バーレを武力で追放し、1991年1月に大統領就任を宣言。ただし実質的な権限はほとんどなかった。

経歴[編集]

世に出るまで[編集]

1939年[1]イタリア領ソマリランドのヴィラッジョ・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ(現在のジョハール)で生まれた。ハウィエの支族アブガル英語版の出身[1]スンナ派の信徒。首都モガディシュでホテルを経営していた。

統一ソマリ会議[編集]

1970年代のソマリアでは、第3代大統領のモハメド・シアド・バーレオガデン戦争に失敗し、その後クーデター未遂とされる事件が数件起こった[2][3]。これらに与したとされる人物の多くが逮捕され、一部は海外に逃亡した。

1980年代の終わりになると、バーレ体制はかなりのほころびが目立つようになり、国中で抵抗運動が発生した。中でも、ハウィエ氏族が主体の軍閥統一ソマリ会議 (USC) は地盤がモガディシュに近かったこともあり、大きな影響力を持った。

統一ソマリ会議は元々イタリアのローマでアリ・モハメド・ワーディグリーが設立した団体で、アリは有力メンバーの一人に過ぎなかった。途中から、インドに滞在していたモハメッド・ファッラ・アイディードが参加し、統一ソマリ会議軍事部門のトップに立った。1990年に統一ソマリ会議幹部のイスマエル・ジュマレ・オッソブレが死去すると、アリとアイディードは対立した[4]。対立の原因には、ハウィエの出身支族が異なること(アリはアブガル支族、アイディードはハバル・ギディル英語版支族)や立場の違い(事務畑のアリと軍事畑のアイディード)があった[5]

ソマリア大統領[編集]

統一ソマリ会議は首都モガディシュに侵攻し、1991年1月にバーレ大統領は国外に逃亡する。モガディシュに入ったアリは、1月28日にソマリア第4代大統領就任を宣言した。1991年7月に行われたジブチ会議において、2年間の暫定大統領の立場を承認された。これによりジブチ、エジプト、イタリア、サウジアラビアなどからも承認を受けたが、ソマリアの他の軍閥の多くからは認められなかった[5]。アイディードもまたこの宣言を認めず、11月17日、アリ派とアイディード派の間に戦闘が勃発した[6]

国連は仲介のため、まず1992年2月にアリとアイディードをニューヨークに招き、その結果両者は3月に停戦協定に合意した。これを機として、4月に国際連合ソマリア活動(UNOSOM)が開始された。しかしアイディードがUNOSOMに協力的ではなかったため[7]アメリカ軍主体の多国籍軍統一タスクフォース英語版(UNITAF)が編成され、12月9日から「希望回復作戦」と呼ぶ作戦を開始した。その結果、12月28日にアリ派とアイディード派の休戦が成立。しかし結局戦闘は収まらず、第二次国際連合ソマリア活動も功を奏しなかった。1993年10月3日のモガディシュの戦闘をきっかけに国連の活動は衰退を見せる。まず、1994年3月にアメリカ軍がソマリアから撤退。さらに、残りの国連軍も1995年1月から3月にかけて撤退した。1995年6月にアイディードはソマリア大統領就任を宣言したが、アリとの抗争も依然として続いた。そのアイディードも翌年に死亡すると、ソマリアはさらなる無秩序状態に陥った。以後、アイディードの息子らが大統領就任を宣言するが、これも実効性がなかった。

2000年7月、ジブチにおいてソマリアの暫定大統領選挙が行われた。20人以上の候補者の中から、1次予選を通過した4人の内の1人にアリは選ばれたが、この時点で立候補を辞退した。2次予選でアリはアブディカシム・サラ・ハッサンに投票し、結果ハッサンが暫定大統領に選出された[8][9]。この政府は暫定国民政府と呼ばれたが、結局ほとんど実権を持つことができなかった[10]

2002年11月にソマリ和解会議英語版が隣国ケニアで開かれたが、交渉は決裂し、参加していたアリも途中で帰国した[11]

2004年、以前の暫定国民政府を取り込む形で暫定連邦政府が発足。アリは国民和解委員会(National Reconciliation Committee)の議長に選出された[10]。2007年9月17日には、サウジアラビアのジッダにおいて、国民和解会議の和平協定に署名した[12]

出典[編集]

  1. ^ a b Metz, Helen Chapin (1993). Somalia: a country study. The Division. p. 155. ISBN 0844407755. http://www.google.com/books?id=0lXJ6nHj5HIC 2014年6月10日閲覧。. 
  2. ^ ARR: Arab report and record, (Economic Features, ltd.: 1978), p.602.
  3. ^ Ahmed III, Abdul. “Brothers in Arms Part I”. WardheerNews. 2012年2月28日閲覧。
  4. ^ Library Information and Research Service, The Middle East: Abstracts and index, Volume 2, (Library Information and Research Service: 1999), p.327.
  5. ^ a b Paul Fricska, Szilard. “Harbinger of a New World Order? Humanitarian Intervention in Somalia”. University of British Columbia. 2013年10月6日閲覧。
  6. ^ “[http://www.repubblica.it/2006/12/sezioni/esteri/somalia/scheda-somalia/scheda-somalia.html Somalia: dall'indipendenza del 1960 agli orrori di "Black Hawk down"]”. la Repubblica.it. 2015年1月25日閲覧。
  7. ^ 佐伯太郎. “ポスト冷戦期のアフリカにおける国内紛争の終結と政治秩序の構築”. 首都大学東京. 2015年1月29日閲覧。
  8. ^ SOMALIA: Interim parliament elects new president”. IRIN. 2015年1月31日閲覧。
  9. ^ In-depth: Somali National Peace Conference”. IRIN. 2015年1月31日閲覧。
  10. ^ a b Somalia: peace and rival peace”. International Relations and Security Network. 2015年1月31日閲覧。
  11. ^ “Somali warlord quits peace talks”. BBC News. (2002年11月18日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/2488171.stm 2015年1月31日閲覧。 
  12. ^ Somali leaders sign landmark peace agreement in Jeddah”. saudiembassy.net. 2015年1月31日閲覧。
公職
先代:
モハメド・シアド・バーレ
ソマリアの旗 ソマリア大統領
第4代:1991年 - 1997年
次代:
アブディカシム・サラ・ハッサン
(ソマリア暫定国民政府)