アッサイェの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
アッサイェの戦い
Battle of Assaye
第二次マラーター戦争
Battle of Assaye2.jpg
軍を率いるアーサー・ウェルズリー
1803年9月23日
場所 インドアッサイェ
結果 イギリスの勝利
衝突した勢力
Flag of the British East India Company (1801).svg イギリス東インド会社 Flag of the Maratha Empire.svgシンディア家
ボーンスレー家
指揮官
Flag of the British East India Company (1801).svgアーサー・ウェルズリー Flag of the Maratha Empire.svgダウラト・ラーオ・シンディア
Flag of the Maratha Empire.svgラグージー・ボーンスレー2世
戦力
9,500人
大砲17 門
ヨーロッパ式訓練を受けた歩兵10,800人
非正規軍歩兵10,000 - 20,000人
非正規軍騎兵30,000 - 40,000人
大砲100門+
被害者数
602人 6000人

アッサイェの戦い(アッサイェのたたかい、英語:Battle of Assaye)は、1803年9月23日インドアッサイェにおいて、シンディア家およびボーンスレー家の連合軍とイギリス東インド会社との間で行われた、第二次マラーター戦争の戦いの一つ。同戦争における最大の激戦でもある。

戦闘[編集]

1803年9月11日シンディア家はイギリス側の司令官ジェラルド・レイクの軍にデリーの戦いで敗れ、デリーを奪われて多くの犠牲者を出した。

そのため、シンディア家は兵士をヨーロッパ式の歩兵大砲を増やし、ボーンスレー家と共同戦線を張ることに決め、これ以降行動を共にすることとなった。

すでに、8月8日にイギリス側の司令官アーサー・ウェルズリーは13500の兵をもって、シンディア家のデカンにおける拠点アフマドナガルを攻撃し、12日に占領した(アフマドナガル包囲戦)。その後、彼はニザーム藩王国の都市アウランガーバードへと入った。

シンディア家とボーンスレー家の連合軍はアッサイェに陣を張ってそこで宿泊していたが、21日から22日にかけてその近辺では、イギリス側との小競り合いが起こっていた。

そして、23日にシンディア家とボーンスレー家の連合軍はイギリス軍とアッサイェで交戦状態に入り、全面衝突となった。マラーター側連合軍は5万兵と100基の大砲を持っており、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲は20基しかなく圧倒的に不利な情勢であった。

アーサー・ウェルズリーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには、敵軍の側面をつくしかないと考えてクリシュナ川渡河を敢行した。この作戦は見事成功し、正面からのイギリス軍の歩兵の突撃も相まって、マラーター軍は大混乱に陥った。

翌24日までに、大勢の犠牲者を出したマラーター軍はアッサイエから撤退し、この戦いはイギリス側の勝利に終わった。

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]