アイスホッケーチェコ代表
| 協会 | チェコアイスホッケー協会 |
|---|---|
| ゼネラル マネージャー |
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| ヘッドコーチ |
|
| アシスタント コーチ |
Jiří Kalous |
| 主将 | Roman Červenka |
| 最多出場 | Roman Červenka (220)[1] |
| 最多得点 | Martin Procházka (61) |
| 最多ポイント | David Výborný (147) |
| 本拠地 | O2アリーナ |
| IIHFコード | CZE |
| IIHFランク | 5 |
| 最高IIHFランク | 2 (2006年) |
| 最低IIHFランク | 8 (2023年) |
![]() | |
| 初出場 | |
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(スウェーデン; February 11, 1993) | |
| 最大差勝利試合 | |
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(ドイツ; May 6, 2001) | |
| 最大差敗戦試合 | |
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(スウェーデン; February 11, 2012) | |
| 世界選手権 | |
| 出場回数 | 32 (1993年初出場) |
| 最高成績 |
|
| ワールドカップ | |
| 出場回数 | 3 (1996初出場) |
| 最高成績 | 3位: 2004 |
| オリンピック | |
| 出場回数 | 9 (1994年初出場) |
| 獲得メダル |
|
| 通算勝敗数 (W–L–T) | |
| 535–348–42 | |
アイスホッケーチェコ代表(アイスホッケーチェコだいひょう、英語: Czech Republic men's national ice hockey team)は、オリンピックを始めとする国際大会に出場するチェコアイスホッケー協会によるチェコ(Czechia)のナショナルチームである。
歴史
[編集]チェコ代表はチェコスロバキア代表の後継と見なされているため、ここではチェコ代表成立以前のチームを含めて言及する。
1908~1914年 ボヘミア王国時代
[編集]⇒アイスホッケーボヘミア代表を参照。
1920~1992年 チェコスロバキア時代
[編集]アイスホッケーは1920年アントワープ夏季オリンピックの公開競技として導入され、チェコスロバキア代表は3位となったが、1923年末にはクラブ間の対立により協会は事実上崩壊し、1924年シャモニー・モンブランオリンピックではカナダに0対30で大敗し6位、1928年サンモリッツ大会は7位、資金不足のため1932年レークプラシッドオリンピックには参加せず、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会でも状況は好転せず、世界選手権では1933年と1938年の2回の銅メダルにとどまった。
1940年 ボヘミア・モラヴィア保護領男子代表チーム
[編集]ドイツ領ボヘミア・モラヴィア保護領の男子アイスホッケー代表チームとして、1940年1月11日から2月7日の間に6回の親善試合を行った。その後保護領は解体され、チェコスロバキア第三共和国の一部となった後、再編成されたチェコスロバキア男子代表チームに吸収された。[2]
第二次世界大戦後
[編集]1947年世界選手権で、チェコスロバキア代表はプラハでホーム初の金メダルを獲得した。1948年サンモリッツオリンピックではわずか得失点差2で金メダルを逃したが、1949年世界選手権で優勝した。その間にチェコスロバキア共産党に政権が移行し、LTCプラハの選手たちによる亡命代表チーム結成の計画が当局に届いたため、1950年の選手権出発前に11人の代表選手が逮捕され、翌1951年の世界選手権も出場できなかった。1952年オスロオリンピックのアイスホッケー競技では、ベストメンバー以外の若手選手を擁するチームが4位に終わり、1953年世界選手権では、クレメント・ゴットワルト大統領の死期が近いことから大会途中で帰国しチームは失格になった。
1961年にソ連を破り12年ぶりにヨーロッパ選手権のタイトルを獲得し、世界選手権ではカナダと同点ながら銀メダルとなり、1960年代を通して安定的にメダルを獲得した。1968年グルノーブルオリンピックでは5対4でソ連を破り、ソ連代表の主要国際大会での無敗記録を32で止めたが、1ポイント差でまたも金メダルを逃した。1969年世界選手権ではソ連に連勝したが、スウェーデンに連敗し3位に終わった。
1972年世界選手権プラハ大会で23年ぶりの優勝を果たし、大会を通して無敗を貫き、初戦のソ連と引き分けの後の再戦で3対2の勝利を収めた。イワン・フリンカ、ヴラジミール・マルチネッツ、フランティシェク・ポスピシル、ヤロスラフ・ポウザールを中心としたチームは再び1976年世界選手権で優勝し、翌年には初の連覇を果たした。1976年インスブルックオリンピックではソ連との決勝戦で試合終了間際に逆転負けを喫し、同年のカナダカップでは初戦でカナダを破り決勝に進出した。
当時、北米ではNHLと並行して7年間WHAという別のリーグの存在があり、特にスウェーデンとフィンランドは海外への選手流出が続いたため、全盛期のチェコスロバキアの選手たちに中にも、そのような追い求める動きが始まり、1974年に亡命したヴァーツラフ・ネドマンスキーとリチャード・ファルダといった先人は他の選手たちにインスピレーションを与えたが、そういった選手たちは政権にとって好ましくない存在だったため、国を代表することができなかった。それでもなおヴラディミール・ルジチカやドミニク・ハシェックといった新たな才能を育成していた。1984年のサラエボオリンピックでは準優勝、プラハでの翌1985年世界選手権では8年ぶりのタイトルを獲得した。1989年の東欧民主化によって、ヤロミール・ヤーガー、ロベルト・ライヘル、ロベルト・ホリクといった若手選手も、国外への移籍が可能になった。
1993~現在 チェコ時代
[編集]1993年にはチェコスロバキアが分裂、チェコ代表となった1993年世界選手権で銅メダルを獲得し、同年の世界ジュニア選手権に出場したチームは、チェコ人とスロバキア人の合同で結成された最後のチームとなり、1994年のリレハンメルオリンピックでは、両国が主要国際大会で初めて対戦した。
チェコは1990年代初頭の低迷から立ち直り、すべての始まりは、1996年世界選手権での優勝だった。ロベルト・ライヘル、パベル・パテラ、ダビド・ヴィボルニー、マルティン・ルチンスキーらを中心とした世代の選手たちは合計5回の金メダルを獲得したが、最も価値のある勝利は、1998年長野オリンピックのアイスホッケー競技での優勝である。NHL選手が初めて出場したオリンピックで、トップシード6チームの中でNHL選手の出場が最も少なかったチェコ代表は、プレーオフで優勝候補の3チーム、アメリカ、カナダ、ロシアを破り、金メダルを獲得した。ゴールテンダーのドミニク・ハシェックの印象的なセーブ、18歳で西側に亡命し母国代表として最初で最後の出場を果たしたペトル・スヴォボダの決勝ゴールで、史上最大の勝利を収めた。長野オリンピックは、チェコホッケーの黄金時代の頂点、そして象徴となった。2006年トリノオリンピックで銅メダルを獲得したが、以降の冬季オリンピックではまずまずの成績が続いており、2022年北京オリンピックでは史上最低の9位、2026年ミラノ・コルティナオリンピックでも8位に終わっている。
1999年から2001年にかけて、それまでカナダとソ連だけしか成し遂げたことのない世界選手権3連覇を達成した。U-20代表チームも2000年と2001年の世界ジュニア選手権を連覇している。世界選手権では2005年大会と2010年大会にも優勝した。2011年大会と2012年大会の銅メダル獲得後、しばらくのメダル空白と2023年世界選手権で史上最低順位の8位を記録する中で、2022年大会の銅メダル、2023年から2025年にかけての世界ジュニア選手権でのメダル獲得、そして2024年プラハ大会では、NHLスターであるダビド・パストルナークの決勝ゴールで12年ぶり、チェコ初(チェコスロバキア時代から数えて4度目)のホームでの世界選手権金メダルを獲得した。[3]
主な成績
[編集]オリンピック
[編集]| 開催年 | 大会名 | 順位 |
|---|---|---|
| 1994年 | リレハンメルオリンピック | 5位 |
| 1998年 | 長野オリンピック | 金メダル |
| 2002年 | ソルトレイクシティオリンピック | 7位 |
| 2006年 | トリノオリンピック | 銅メダル |
| 2010年 | バンクーバーオリンピック | 7位 |
| 2014年 | ソチオリンピック | 6位 |
| 2018年 | 平昌オリンピック | 4位 |
| 2022年 | 北京オリンピック | 9位 |
| 2026年 | ミラノ・コルティナオリンピック | 8位 |
