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'''カトゥーシャ・ニアヌ'''( Katoucha Niane、1960年10月23日 - 2008年2月1日 )は、「プランセス・プル<small>([[プル人]]の姫君)</small>」と呼ばれた、[[黒人]]の[[モデル (職業)|トップモデル]]である<ref name=figaro080207>{{Cite web|url=http://www.lefigaro.fr/actualites/2008/02/06/01001-20080206ARTFIG00466-l-ancien-top-modele-katoucha-a-disparu.php|title=L’ancien top-modèle Katoucha a disparu|publisher=Le Figaro.fr|date=2008-02-06|accessdate=2016-07-05}}</ref><ref name=rfi080207>{{cite web|url=http://www1.rfi.fr/actufr/articles/098/article_62498.asp|title=Disparition de Katoucha, top model engagée contre l'excision|date=2008-02-07|accessdate=2016-07-05}}</ref>。[[ギニア]]の[[コナクリ]]出身<ref name=glamourparis>{{cite web|url=http://www.glamourparis.com/mode/people-mode/diaporama/mannequins-noirs-le-retour-du-black-power/14748|title=katoucha-niane-l-039-insoumise.|publisher=Glamour Paris|accessdate=2016-07-05}}</ref>。[[フランス]]の[[ブローニュ=ビヤンクール]]で事故死した<ref name=rfi080308>{{Cite web|url=http://www.rfi.fr/actufr/articles/099/article_63668.asp|title=Plainte pour meurtre dans l'affaire de Katoucha|publisher=RFI|date=2008-03-08|accessdate=2016-07-05}}</ref>。1980年代を通じて、[[イヴ・サン=ローラン]]のエジェリ(助言者/霊感を与える女性)であった<ref name=figaro080207 /><ref name=rfi080207 />。
'''カトゥーシャ・ニアヌ'''(Katoucha Niane、1960年10月23日 - 2008年2月1日 )は、「プランセス・プル<small>([[プル人]]の姫君)</small>」と呼ばれた、[[黒人]]の[[モデル (職業)|トップモデル]]である<ref name=figaro080207>{{Cite web|url=http://www.lefigaro.fr/actualites/2008/02/06/01001-20080206ARTFIG00466-l-ancien-top-modele-katoucha-a-disparu.php|title=L’ancien top-modèle Katoucha a disparu|publisher=Le Figaro.fr|date=2008-02-06|accessdate=2016-07-05}}</ref><ref name=rfi080207>{{cite web|url=http://www1.rfi.fr/actufr/articles/098/article_62498.asp|title=Disparition de Katoucha, top model engagée contre l'excision|date=2008-02-07|accessdate=2016-07-05}}</ref>。[[ギニア]]の[[コナクリ]]出身<ref name=glamourparis>{{cite web|url=http://www.glamourparis.com/mode/people-mode/diaporama/mannequins-noirs-le-retour-du-black-power/14748|title=katoucha-niane-l-039-insoumise.|publisher=Glamour Paris|accessdate=2016-07-05}}</ref>。[[フランス]]の[[ブローニュ=ビヤンクール]]で事故死した<ref name=rfi080308>{{Cite web|url=http://www.rfi.fr/actufr/articles/099/article_63668.asp|title=Plainte pour meurtre dans l'affaire de Katoucha|publisher=RFI|date=2008-03-08|accessdate=2016-07-05}}</ref>。1980年代を通じて、[[イヴ・サン=ローラン|イヴ・サン=ロラン]]のエジェリ(助言者/霊感を与える女性)であった<ref name=figaro080207 /><ref name=rfi080207 />。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
カトゥーシャ・ニアヌ、歴史家であり、作家考古学者でもある{{仮リンク|ボルドー大学|fr|Université de Bordeaux}}の{{仮リンク|ジブリル・タムシル・ニアヌ|fr|Djibril Tamsir Niane}}の娘である。[[フラニ人]]の伝統に従い、9歳のときに[[女性器切除|割礼]]を施された。
カトゥーシャの本名は、'''カディディアトゥ・ニアヌ'''(Kadidiatou Niane)といい、歴史家であり、作家考古学者でもある{{仮リンク|ボルドー大学|fr|Université de Bordeaux}}の{{仮リンク|ジブリル・タムシル・ニアヌ|fr|Djibril Tamsir Niane}}の娘である<ref name=grioo080211>{{cite web|url=http://www.grioo.com/ar,katoucha_la_mode_et_l_excision_vues_par_elle_meme_dans_ma_chair_paris_2007,12938.html|title=Katoucha, la mode et l'excision vues par elle même : ''Dans ma chair'', Paris 2007|publisher=Grioo.com|date=2008-02-11|accessdate=2016-07-05}}</ref>自伝によると、9歳のときに、[[フラニ人]]の伝統に従い、[[女性器切除|割礼]]を施された<ref name=grioo080211 />。手術は生まれ故郷の女性医師の手によって行われたが、その時の記憶が強いトラウマとなった<ref name=grioo080211 />。母親は教養のある人ではあったが、自分と夫の知らないところで他の家族がこの儀式をやってしまう虞があったので、社会規範に従うことを選んだ<ref name=grioo080211 />


12歳の時、[[セク・トゥーレ|アフメド・セク・トゥーレ]]独裁下の祖国を離れ、[[マリ共和国|マリ]]へ亡命、そこで父親の兄弟の一人から乱暴される。彼女が[[ダカール]]で家族と再会する前の出来事であった。
カトゥーシャ10歳の時、コナクリ大学の講師であった父 D.T.ニアヌが独裁者であった[[セク・トゥーレ|アフメド・セク・トゥーレ]]大統領からにらまれ、身辺に危険が迫った<ref name=grioo080211 />。両親は先に子どもたちだけでも助けようと亡命計画を練り、カトゥーシャを[[マリ共和国|マリ]]へ亡命させ<ref name=grioo080211 />。12歳の時、そこで父親の兄弟の一人から乱暴される。彼女が[[ダカール]]で家族と再会する前の出来事であった。


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17歳の時に娘を身ごもる。娘の生誕後、8日が経つと、娘が洗礼を受けられるようにと、病院の外で義務的に結婚させられる。そこでカトゥーシャはパリへ逃げ去った。


17歳の時に娘を身ごもる。娘の生誕後、8日が経つと、娘が洗礼を受けられるようにと、病院の外で義務的に結婚させられる。そこでカトゥーシャはパリへ逃げ去った。
1980年に、ファッションブランド、[[ランバン|ランヴァン]]の{{仮リンク|マヌカン・キャビーヌ|fr|Mannequin de cabine}}になり、マヌカンとして働き始めた<ref name=glamourparis />。その後は、[[ティエリー・ミュグレー|ティエリ・ミュグレール]]などの[[ファッションショー]]に出た<ref name=glamourparis />。[[イヴ・サン=ローラン]]は、カトゥーシャ・ニアヌを「プル人の姫君, « la princesse peule »」と呼び、1980年代を通してたびたび助言を仰いだ。このようなポジションの女性をフランス語で「エジェリ(助言者/霊感を与える女性), égérie」といい、イヴ・サン=ローランのエジェリはのちに{{仮リンク|レベッカ・アヨコ|fr|Rebecca Ayoko}}が引き継いだ<ref name="elle3492">{{Cite journal|first=Emmanuelle|last=Courrèges|title=Splendeurs et misères d'une muse|journal=[[ELLE (雑誌)|Elle]]|series=Story (interview)|volume=3492|date=2012-11-30|pages=107-108|issn=0013-6298|accessdate=2012-01-04}}</ref>。ずっとスタイリストの仕事への挑戦を考えており、計3回のファッションショーを成功させた。1回目は恋人のライモン・ヴィザンの手を借り、ブッダ・バーで行った。2回目はエスパス・カルダンで、最後の3回目は芸術大学で行った。その一方で私生活ではアルコール依存症や子どもの親権の喪失などのトラブルがあったという


1980年に、ファッションブランド、[[ランバン|ランヴァン]]の{{仮リンク|マヌカン・キャビーヌ|fr|Mannequin de cabine}}になり、マヌカンとして働き始めた<ref name=glamourparis />。その後は、[[ティエリー・ミュグレー|ティエリ・ミュグレール]]などの[[ファッションショー]]に出た<ref name=glamourparis />。[[イヴ・サン=ローラン]]は、カトゥーシャ・ニアヌを「プル人の姫君, « la princesse peule »」と呼び、1980年代を通してたびたび助言を仰いだ。このようなポジションの女性をフランス語で「エジェリ(助言者/霊感を与える女性), égérie」といい、イヴ・サン=ローランのエジェリはのちに{{仮リンク|レベッカ・アヨコ|fr|Rebecca Ayoko}}が引き継いだ<ref name="elle3492">{{Cite journal|first=Emmanuelle|last=Courrèges|title=Splendeurs et misères d'une muse|journal=[[ELLE (雑誌)|Elle]]|series=Story (interview)|volume=3492|date=2012-11-30|pages=107-108|issn=0013-6298|accessdate=2012-01-04}}</ref>。ずっとスタイリストの仕事への挑戦を考えており、計3回のファッションショーを成功させた。1回目は恋人のライモン・ヴィザンの手を借り、ブッダ・バーで行った。2回目はエスパス・カルダンで、最後の3回目は芸術大学で行った。
カトゥーシャ・ニアヌは2008年2月1日の夜、行方不明になった。家には戻ったのであるが、その家はパリの[[セーヌ川]]に係留している[[屋形船|平底船]]のプティット・ヴィテス号であった<ref name=figaro080207 />。彼女は船を、伴侶の建築家、ヴィクトル=ロラン・コットと分け合って住んでいた。カトゥーシャ・ニアヌの遺体は2月28日に[[ガリリアーノ橋|ガリリャノ橋]]の川上にある[[ブローニュ=ビヤンクール]]で引き上げられた。警察の捜査はこれを事故死と結論づけたが家族は納得せず、殺人あると主張した<ref name=rfi080308 />。


== 社会活動 ==
カトゥーシャ・ニアヌは2008年3月14日に、コナクリにて埋葬された。
2007年9月に、カトゥーシャはシルヴィア・ドイチュ(Sylvia Deutsch)との共著で、『肉体の中で』(原題: ''Dans ma chair'' )と題した本を出版した。本書は自伝であり、自身の体に加えられたエクシジョン(切除。特に、[[女子割礼]]の一類型で、[[女性器]]の一部を切除することを言う。)に関する証言でもあった。彼女は[[女性器切除]]を施された被害者を支援する団体、KPLCE (Katoucha pour la lutte contre l’excision) を設立。アフリカの一部に見られるこの風習を止めさせためのキャンペーンを行った。


== 死去 ==
== エクシジョン(女性器一部切除)との戦い ==
カトゥーシャは2008年2月1日の夜、行方不明になった。家には戻ったのであるが、その家はパリの[[セーヌ川]]に係留している[[屋形船|平底船]]のプティット・ヴィテス号であった<ref name=figaro080207 />。彼女は船を、伴侶の建築家、ヴィクトル=ロラン・コットと分け合って住んでいた。行方不明になった夜は川の流量が多く、カトゥーシャは泥酔していたという<ref name=grioo080211 />。彼女の遺体は2月28日に[[ガリリアーノ橋|ガリリャノ橋]]の川上にある[[ブローニュ=ビヤンクール]]で引き上げられた。警察の捜査はこれを事故死と結論づけたが家族は納得せず、殺人の可能性があるとして検死結果の開示を求めた<ref name=rfi080308 />。2008年3月14日に、コナクリにて埋葬された。47歳。
2007年9月に、カトゥーシャ・ニアヌはシルヴィア・ドイチュ(Sylvia Deutsch)との共著で、『肉体の中で』(原題: ''Dans ma chair'' )と題した本を出版した。本書は自伝であり、自身の体に加えられたエクシジョン(切除。女子割礼の一類型で、女性器の一部を切除することを言う。)に関する証言でもあった。彼女は[[女性器切除]]を施された被害者を支援する団体、KPLCE (Katoucha pour la lutte contre l’excision) を設立し、当該風習に対す戦いに携わった。


== 脚注 ==
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[[Category:コナクリ出身の人物]]
[[Category:コナクリ出身の人物]]
[[Category:フランスのファッションモデル]]

2016年7月5日 (火) 23:36時点における版

画像外部リンク
2007年に出版されたカトゥーシャ・ニアヌの自伝『肉体の中で』の表紙

カトゥーシャ・ニアヌ(Katoucha Niane、1960年10月23日 - 2008年2月1日 )は、「プランセス・プルプル人の姫君)」と呼ばれた、黒人トップモデルである[1][2]ギニアコナクリ出身[3]フランスブローニュ=ビヤンクールで事故死した[4]。1980年代を通じて、イヴ・サン=ロランのエジェリ(助言者/霊感を与える女性)であった[1][2]

生涯

カトゥーシャの本名は、カディディアトゥ・ニアヌ(Kadidiatou Niane)といい、歴史家であり、劇作家、考古学者でもあるボルドー大学ジブリル・タムシル・ニアヌの娘である[5]。自伝によると、9歳のときに、フラニ人の伝統に従い、割礼を施された[5]。手術は生まれ故郷の女性医師の手によって行われたが、その時の記憶が強いトラウマとなった[5]。母親は教養のある人ではあったが、自分と夫の知らないところで他の家族がこの儀式をやってしまう虞があったので、社会規範に従うことを選んだ[5]

カトゥーシャ10歳の時、コナクリ大学の講師であった父 D.T.ニアヌが独裁者であったアフメド・セク・トゥーレ大統領からにらまれ、身辺に危険が迫った[5]。両親は先に子どもたちだけでも助けようと亡命計画を練り、カトゥーシャをマリへ亡命させた[5]。12歳の時、そこで父親の兄弟の一人から乱暴される。彼女がダカールで家族と再会する前の出来事であった。

ダカールでは父の義理の姉妹の家に身を寄せる。彼女はレオポール・セダール・サンゴールの秘書をしていた人物で「いつも幸福と解決方法を与えてくれる人」であった[5][6]

17歳の時に娘を身ごもる。娘の生誕後、8日が経つと、娘が洗礼を受けられるようにと、病院の外で義務的に結婚させられる。そこでカトゥーシャはパリへ逃げ去った。

1980年に、ファッションブランド、ランヴァンマヌカン・キャビーヌフランス語版になり、マヌカンとして働き始めた[3]。その後は、ティエリ・ミュグレールなどのファッションショーに出た[3]イヴ・サン=ローランは、カトゥーシャ・ニアヌを「プル人の姫君, « la princesse peule »」と呼び、1980年代を通してたびたび助言を仰いだ。このようなポジションの女性をフランス語で「エジェリ(助言者/霊感を与える女性), égérie」といい、イヴ・サン=ローランのエジェリはのちにレベッカ・アヨコフランス語版が引き継いだ[7]。ずっとスタイリストの仕事への挑戦を考えており、計3回のファッションショーを成功させた。1回目は恋人のライモン・ヴィザンの手を借り、ブッダ・バーで行った。2回目はエスパス・カルダンで、最後の3回目は芸術大学で行った。

社会活動

2007年9月に、カトゥーシャはシルヴィア・ドイチュ(Sylvia Deutsch)との共著で、『肉体の中で』(原題: Dans ma chair )と題した本を出版した。本書は自伝であり、自身の体に加えられたエクシジョン(切除。特に、女子割礼の一類型で、女性器の一部を切除することを言う。)に関する証言でもあった。彼女は女性器切除を施された被害者を支援する団体、KPLCE (Katoucha pour la lutte contre l’excision) を設立。アフリカの一部に見られるこの風習を止めさせるためのキャンペーンを行った。

死去

カトゥーシャは2008年2月1日の夜、行方不明になった。家には戻ったのであるが、その家はパリのセーヌ川に係留している平底船のプティット・ヴィテス号であった[1]。彼女は船を、伴侶の建築家、ヴィクトル=ロラン・コットと分け合って住んでいた。行方不明になった夜は川の流量が多く、カトゥーシャは泥酔していたという[5]。彼女の遺体は2月28日にガリリャノ橋の川上にあるブローニュ=ビヤンクールで引き上げられた。警察の捜査はこれを事故死と結論づけたが家族は納得せず、殺人の可能性があるとして検死結果の開示を求めた[4]。2008年3月14日に、コナクリにて埋葬された。47歳。

脚注

  1. ^ a b c L’ancien top-modèle Katoucha a disparu”. Le Figaro.fr (2008年2月6日). 2016年7月5日閲覧。
  2. ^ a b Disparition de Katoucha, top model engagée contre l'excision” (2008年2月7日). 2016年7月5日閲覧。
  3. ^ a b c katoucha-niane-l-039-insoumise.”. Glamour Paris. 2016年7月5日閲覧。
  4. ^ a b Plainte pour meurtre dans l'affaire de Katoucha”. RFI (2008年3月8日). 2016年7月5日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h Katoucha, la mode et l'excision vues par elle même : Dans ma chair, Paris 2007”. Grioo.com (2008年2月11日). 2016年7月5日閲覧。
  6. ^ 自伝、p41
  7. ^ Courrèges, Emmanuelle (2012-11-30). “Splendeurs et misères d'une muse”. Elle. Story (interview) 3492: 107-108. ISSN 0013-6298. 

Vidéographie

  • Jean Luret, Katoucha, le destin tragique d’un top model documentaire réalisé en 2009, retrace sa carrière.

外部リンク