新納久仰
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文化4年10月3日(1807年11月2日) |
死没 | 明治6年(1873年)6月3日 |
改名 | 畠山義愈(初名)→新納久仰→葦洲(号) |
別名 | 通称:駿河、亀之助、彦九郎、次郎四郎、内蔵 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市の興国寺 |
主君 | 島津斉興→斉彬→茂久 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 畠山氏→新納氏 |
父母 |
父:畠山義矩、母:新納久儔娘・広 養父:新納久敬 |
兄弟 | 男子、久仰 |
妻 | 新納久敬娘 |
子 | 久脩 |
新納 久仰(にいろ ひさのり)は、江戸時代後期の武士。薩摩藩家老。後年は葦洲と称した。
生涯
[編集]文政8年(1825年)、当番頭、加久藤地頭職を務め、新納久命の跡を継ぐ。文政12年(1829年)琉球付役、天保5年(1834年)用人、天保8年(1837年)異国船掛、兵具方掛、数寄屋掛、天保12年(1841年)寺社奉行、弘化4年(1847年)大姶良地頭職、弘化5年(1848年)寺社方内掛、嘉永2年(1849年)大番頭、勘定奉行を歴任。嘉永4年(1851年)島津斉彬が藩主を襲封すると家老に取り立てられ、富国強兵・殖産興業政策を補佐した。安政3年(1856年)には勝手掛に就いている。
斉彬の没後は復権した前藩主・島津斉興に島津久宝と共に重用され、10年間の非常緊縮を発表して財政整備に当たり、斉彬の創設した集成館・鋳製所・開物館等の製造所を縮小廃止し、水軍を解散するなど、前事業を中絶させた。安政6年(1859年)には軍役総奉行となる。しかし斉興が没すると久宝に続いて罷免される事となった。文久3年(1863年)隠居、子・久脩が跡を継いだ。
家格は寄合の新納二男家。また彼が残した『新納久仰雑譜』は、当時の高級役人の生活が詳細に記されている貴重な史料である。
登場作品
[編集]- テレビドラマ