黎聖宗
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在位 | 1460年-1497年 |
出生 |
1442年 |
死去 |
1497年 |
埋葬 | 昭陵 |
子女 | 別記 |
王朝 | 黎朝 |
父親 | 黎太宗 |
母親 | 呉氏玉瑶 |
黎聖宗(れいせいそう、レ・タイントン、ベトナム語:Lê Thánh Tông、1442年7月25日 - 1497年3月3日)は、ベトナム後黎朝大越国の第5代皇帝(在位:1460年 - 1497年)。第2代皇帝黎太宗の四男。聖宗は廟号で、実名は黎思誠(レ・トゥ・タイン、Le Tư Thánh)。諡号は淳皇帝。ホーチミン市(旧サイゴン)には彼の名を冠した「レタイントン通り」がある。
生涯
1444年に平原王に封じられる。
即位前の政治、軍事の事績については『大越史記全書』に記されておらず、経籍を愛読したことが伝えられる。父レ・タイトンの暗殺後の混乱の中、阮熾や丁列ら軍部の元老を旗頭として禁軍(近衛兵)の将校が起こしたクーデタにより1460年に即位する[1]。
チャンパの征服
軍制改革も行い、1470年8月に南ベトナムのチャンパ王国の王槃羅茶全の侵入を退けて逆に親征(南進)し、首都ヴィジャヤを陥落させるなどの成果をあげた。 広南承宣を設置してコーチシナ半島南中部のベトナム化を進め[2]、黎朝のチャンパへの優位を確たるものとした。パーンドゥランガ(現在のニントゥアン省、ビントゥアン省)に残るチャンパ王古来に対しては対立王を立てて干渉した[3]。また1479年8月にラオスのラーンサーン王国へも親征し、5方向から軍を進めた。王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治した。雲南に数度派兵、マラッカ王国にも影響を及ぼさん[4]として黎朝の最大版図を築く。
明に対してはチャンパへの侵略を正当化して介入をかわそうとし[5]、明側は彼が偽証を述べたと知っていながら強硬に介入することはできず、土地の返還を勧奨するにとどまった[6]。
光順中興
中国の制度にならい[7]、宰相を廃止して中央政府に六部を設置した。六部は夷部(民事)、戸部(財産)、礼部、兵部、刑部、工部で構成され、翰林院、国史院、御史台が専門機関として設けられた。1483年に律令『洪徳律例(国朝刑律)』を公布し、中央集権制度の整備に尽くした。『洪徳律例』は中国的な封建制度を基盤としてベトナム本来の法律と慣習を成文化したものであり[8]、女性の権利の保護に関わる条文も存在した。
地方制度も整え、国土を13の承宣(トゥアティエン)に分けてハノイを中都府に定め、承宣の内部を府県に細分化した。王朝初期からの土地制度を改良、紅河デルタ一帯に均田制を施行した。公田は6年に一度の検地に基づいて農民に公平に分配され、税収と兵数の把握に役立った[9]。また、紅河デルタに存在していた集落を社(サー)という区画にまとめ上げ、社は徴税、徴兵、公共事業の単位として機能した。1954年に行われる土地改革まで、500年近くの間公田と社が紅河デルタ地方の土地制度を形成した[10]。
中国の史書『明史』においても彼の業績は称えられ[11]、「光順中興」と呼ばれるタイントンの時代はまさに黎朝の全盛期であった[12]。
科挙試験とベトナム文化
タイントンは先代の黎宜民が目指した官僚主導の政権の構築を目指し[13]、「光順中興」の時代にレ・タイトンの治世から始まった科挙制度が確立された[14]。受験者の資格の制定(儒教の徳目に反する者は郷試の受験が認められなかった)、会試の方法の改定によって合格者の質の向上を図り、制度の確立に貢献があったのはタイントン、ニャントンの治世に登用された科挙官僚であった[15]。合格者の名前は石碑に刻まれ、そこにはベトナム史に残る政治家、学者、文人の名前が多く記されていた[16]。科挙による朱子学の振興と試験を通過した文人官僚の増加は、史学とベトナム漢文学の隆盛ももたらした[17]。ベトナム国内の伝説を集めた『嶺南摭怪』の編纂、呉士連によって献上された、それまでのベトナム史書の集大成である編年体の通史『大越史記全書』の完成がタイントン時代の史学界を代表する出来事として挙げられる。
文人官僚だけでなくタイントン自身も詩作を好み、文芸サロンの騒壇(タオダン)会を主宰するほどだった。彼の著作には、漢文による『瓊苑九歌』『珠璣勝賞』『征西紀行』『明良錦繍』『文明古師』『古心百詠』、チュノムを用いた『洪徳国音詩集』、詩集『天南余暇集』がある。
タイントンは軍部で要職の多くを占めていたタインホア出身者を抑えるために、科挙合格者にナムサック(現ハイズオン省の都市)を多く加えた[18]。死後は子の憲宗が跡を継ぐが、タインホア出身の軍人とナムサック出身の新興の官僚の対立が深まり、黎朝は次第に衰退期に入ることになった。
子女
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Territorial_expansion_of_Vietnam_from_L%C3%BD_dynasty_to_Nguy%E1%BB%85n_dynasty_%281009%E2%80%931834%29.gif/200px-Territorial_expansion_of_Vietnam_from_L%C3%BD_dynasty_to_Nguy%E1%BB%85n_dynasty_%281009%E2%80%931834%29.gif)
男子
脚注
- ^ 八尾「山の民と平野の民の形成史 一五世紀のベトナム」『東南アジア近世の成立』、211頁
- ^ 桜井「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史 1 大陸部』、189頁
- ^ 「占城人言、王孫請封之後、即為古来所殺、安南以偽敕立其国人提婆苔為王。」 『明史』巻324、列伝212、外国5、占城
- ^ 「今已拠占城地、又欲吞本国。本国以皆為王臣、未敢与戦。」 『明史』巻325、列伝213、外国6、満剌加、成化10年の条
- ^ 「占城王盤羅茶全侵化州道、為其弟盤羅茶悦所弑、因自立。及将受封、又為子茶質苔所弑。其国自乱、非臣灝罪。」 『明史』巻321、列伝209、外国2、安南
- ^ 中朝知其詐、不能詰、但勧令還其土宇。
- ^ 桜井「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史 1 大陸部』、189頁
- ^ 『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、242頁
- ^ 桜井「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史 1 大陸部』、187-188頁
- ^ 桜井「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史 1 大陸部』、188頁
- ^ 「灝雄桀、自負国富兵強、輒坐大。」 『明史』巻321、列伝209、外国2、安南
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史』、129-130頁
- ^ 八尾「山の民と平野の民の形成史 一五世紀のベトナム」『東南アジア近世の成立』、211-212,216頁
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史』、132頁
- ^ 八尾「山の民と平野の民の形成史 一五世紀のベトナム」『東南アジア近世の成立』、216-217頁
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史』、133頁
- ^ 桜井、八尾「レ・タイントン」『東南アジアを知る事典』
- ^ 八尾「山の民と平野の民の形成史 一五世紀のベトナム」『東南アジア近世の成立』、212頁 桜井「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史 1 大陸部』、191頁
参考文献
- 『アジア歴史事典 5』(平凡社、1984年)182ページ「聖宗」(執筆:藤原利一郎)
- 『東洋歴史大辞典 中巻』(1941年、縮刷復刻版、臨川書店、ISBN 465301471X)695ページ「聖宗」(執筆:小林知生)
- 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』(中公新書, 中央公論社, 1997年7月)
- 桜井由躬雄「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史 1 大陸部』収録(石井米雄、桜井由躬雄編, 新版世界各国史, 山川出版社, 1999年12月)
- 八尾隆生「山の民と平野の民の形成史 一五世紀のベトナム」『東南アジア近世の成立』収録(岩波講座 東南アジア史3, 岩波書店, 2001年8月)
- 桜井由躬雄、八尾隆生「レ・タイントン」『東南アジアを知る事典』(平凡社, 2008年6月)
- ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』(今井昭夫監訳, 伊藤悦子、小川有子、坪井未来子訳, 世界の教科書シリーズ, 明石書店, 2008年8月)
外部リンク
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