香川氏
香川氏(かがわし、かがわうじ)は、日本の氏族。本姓は平氏。家系は桓武平氏のひとつで鎌倉景政を祖とする武家である。主たる家系として安芸香川氏と讃岐香川氏の2流がある。
安芸香川氏
香川氏 (安芸香川氏) | |
---|---|
本姓 | 称・桓武平氏良文流鎌倉氏庶流 |
家祖 | 香川経高 |
種別 |
武家 士族 |
出身地 | 相模国大庭荘香川村 |
主な根拠地 |
相模国香川 安芸国 |
著名な人物 |
香川行景 香川光景 香川勝雄 香川春継 香川正矩 宣阿 香川景樹 香川景晃 |
支流、分家 | 讃岐香川氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
相模国を本貫地とする一族で、鎌倉景政より四代の孫にあたる鎌倉景高が相模国高座郡香河(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)を支配して以降、香川氏を称したのに始まる。景高は一人源頼朝~源義経に従い、手柄を立てたので1字を与えられ経高と改称した。経高には二人の子がおり、兄を経景、弟を義景と称した。
承久三年六月十四日父子三人、承久の乱にて功名を立てその戦功によって、経景は安芸国八木を、義景は安芸国山県群戸谷を与えられた。貞応元年三月三日、義景は、経景の長男である香川景光と共に、相模国から、八木山の裾野に太河に突出したような山へ城(八木城)を築いた。
戦国時代初期には安芸武田氏に従ったが、安芸武田氏は大内氏や毛利氏との戦いによって勢力を衰えさせた。当時の香川氏当主・香川光景は最後まで安芸武田氏を支えたものの、家中の争いにより離反して毛利氏に従った。
その後光景は、毛利氏の家臣として活躍し、毛利水軍の一角(川内水軍)も担い、多くの戦にも参加した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に移封されると、香川氏嫡流は岩国領吉川氏の家老職を務めた。
香川氏の一族であった香川正矩は、主家の命もあり『陰徳記』を記した。その次男の景継は、延宝元年(1673年)京に出て宣阿と名乗り、『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』として出版した。宣阿は武士を捨て、歌人として京に在住するようになり、「梅月堂」と称して徳大寺家に仕え、歌人として生きた。また、その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出して、明治維新を迎えた。
吉川家の家老として生きた宣阿の兄・正経(正恒)は、現在も岩国に残る「香川家長屋門」を建てた。幕末に近い頃、その子孫に香川景晃を出して、藩政を支え、明治を迎えた。
系図
香川氏の正確な系図は不明であり、あくまでも参考としての記載に留める 鎌倉景政 ┃ 景継 ┃ 高政 ┃ 家政 ┃ 香川経高(安芸に所領を得る) ┣━━┓ 景光 景則(讃岐香川氏) (7代?略) 方景 ┃ 吉景 ┣━━┓ 行景 元景 ┏━━╋━━━━━┳━━┳━━┓ 光景 元正 就親 政俊 勝雄 ┣━━┳━━┓ ┃ 広景 春継 学澄 就経 ┃ ┣━━┓ ┃ 就景 家景 家継 元経 │ ┃ 正矩 正矩 ┣━━┓ 正経 景継 ┃ 景新 ┃ 景平 │ 景柄 ├──┬──┐ 景樹 景欽 景嗣 ┃ 景恒 ┃ 景敏
讃岐香川氏
香川氏 (讃岐香川氏) | |
---|---|
本姓 | 桓武平氏良茂流鎌倉氏庶流 |
家祖 | 香川景則 |
種別 | 武家 |
出身地 | 相模国大庭荘香川村 |
主な根拠地 | 讃岐国西部 |
著名な人物 |
香川之景 香川元景 香川親和 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
讃岐国西部を本貫地とする武家。鎌倉権五郎景政を祖とする。香川直系の家紋は、九曜巴(桓武平氏良茂流)。相模の香川氏(桓武平氏良文流と称する鎌倉党の鎌倉権六郎景秀の後裔)、権六郎景秀(鎌倉権五郎景政の子、または孫(子の景継の子)景政の弟の3説)権六郎景秀の後は、相模介家政が高座郡にあった大庭荘の香川村(現茅ヶ崎市北部の大字)に住み、地名に因み香川権大夫と号した。
南北朝時代以降細川氏に従い、白峰合戦での戦功により安富氏とともに讃岐国に入部。代々守護代をつとめ、応仁の乱で活躍し、細川四天王の一人に数えられるようになる。その後、讃岐国内で勢力を広げ、戦国時代には讃岐国の西部の大半を支配するほどであった。
戦国時代の後期の当主香川之景は、毛利元就、織田信長、長宗我部元親と周囲の有力勢力に次々と接近し、織田信長の偏諱を賜り信景と改名。土佐国の長宗我部氏が勢力を拡大してくると長宗我部元親の次男、親和を養子に迎える等、所領の確保に努めたが、天正13年(1583年)、豊臣秀吉が行った四国征伐の際改易となった。