陳龍燦
陳龍燦 |
獲得メダル | ||
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中国 | ||
卓球 | ||
オリンピック | ||
金 | 1988 ソウル | 男子ダブルス |
世界卓球選手権 | ||
銀 | 1985 イェーテボリ | 男子シングルス |
金 | 1985 イェーテボリ | 男子団体 |
金 | 1987 ニューデリー | 男子ダブルス |
金 | 1987 ニューデリー | 男子団体 |
銅 | 1989 ドルトムント | 男子ダブルス |
銅 | 1989 ドルトムント | 混合ダブルス |
銀 | 1989 ドルトムント | 男子団体 |
陳 龍燦 (ちんりゅうさん、チェン・ロンツァン、陈龙灿1965年3月21日 - ) は、中華人民共和国・四川省出身の中国の卓球選手である。
1973年から卓球を始め、1978年に四川省チーム、1979年には青年ナショナルチーム、1983年11月には中国ナショナルチームのメンバーになる。
1988年ソウルオリンピックダブルス金メダル (パートナーは、後に日本に帰化する偉関晴光) などの、輝かしい成績を残した。
1992年から日本の実業団チームヤマハに所属。後に、日産自動車に移籍する。日本リーグで活躍し、チームメイトの渋谷浩、陳、高志亮とのダブルスという必勝オーダーで、国内の実業団タイトルを一時期総ナメにしたことがある。
1999年に、第1回世界クラブ選手権で日本の実業団代表として出場。チームは予選リーグで敗退したものの、中国チームの主力であった劉国梁や王涛 (この二人は、アトランタオリンピック男子単金・銀メダリスト) を破り、中国内で話題になった。
現在は中国に戻り、中国超級 (スーパーリーグ) にヘッドコーチとして活躍している。一時期、中国リーグに参戦していた福原愛を指導していたこともあった。
プレースタイル
- 表ソフトの選手とは思えない、その猛烈なスピンをかけた下回転サービスやツッツキ、及び裏ソフトのドライブ型選手顔負けのパワードライブは、国際試合ではもちろん、日本リーグでプレーしていた晩年の選手時代に至るまで、対戦相手を震撼させた。荻村伊智朗は、その著書の中で「表のドライブ速攻型」と紹介した。
- 『卓球レポート』誌上で、表ソフト速攻型選手向けのQ&Aコーナーを、1993年頃~2000年頃まで担当。その中で、バーベルを用いて手首を鍛えるトレーニング方法を、自身が行っている様子を写した参考写真と共に紹介。これが、上述の強烈なスピンの原動力となったと思われる。
- 他にも、サービス後バック側へ素早く回り込んで打ち込む、切れ味鋭い3球目攻撃 (上述のスピンを生かした、猛烈なパワードライブが主であった) 、各国のドライブ型選手が放つパワードライブを、パチンと合わせてコースを突くナックルショート、見た目以上に切れたツッツキ…など、非常に繊細な技術を苦も無く使いこなしたことから、「青い台の魔術師」と称された。
- 第40回世界卓球選手権ドルトムント大会 (1989年) において、1980年代初頭のジュニア時代からプレーを続けてベテラン化し、全盛期から下降気味であった江加良、陳、滕毅という、前回・第39回ニューデリー大会 (1987年) と同じ布陣で臨んだ中国チームは、 第37回東京大会 (1983年) から4回連続で、団体戦決勝でスウェーデンチームとまたしても因縁の対決。まさかの0-5で完敗して、遂に王座から陥落 (スウェーデンが優勝を決めた試合は、陳 vs. ミカエル・アペルグレンであった) 。それまで、世界を圧倒して来た中国選手の代名詞であった、ペンホルダー・表ソフトの前陣速攻プレーが総敗北するという、卓球史上に残る一大事が起きた。これを受けて、中国指導陣による抜本的な改革が始まり、陳も翌年の1990年から、それまでペンホルダーラケットの片面のみに表ソフトラバーを貼った従来型から、裏面に裏ソフトラバーを貼って反転プレーをするスタイルを編み出した。
- 当時まで、ペンホルダー選手で両面にラバーを貼るのは、守備用の粒高ラバーに裏ソフトラバー (元・中国女子代表の陳子荷は表ソフトラバー) を併用し、サービス時やラリー中にラケット面を反転してプレーするスタイルの選手ぐらいだっただけに、この陳龍燦のような、攻撃用ラバー同士の組み合わせはまだ珍しかった。しかし、後年の劉国梁 (表ソフト×裏ソフト) や馬琳、閻森、王皓 (裏ソフト×裏ソフト) らの「ペン両面攻撃」選手らとは異なり、いわゆる「裏面打法」は用いず、ラケット面を反転させて表面だけで打球するスタイルであった。
主な戦績