出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "長野正義" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年8月) |
長野 正義(ながの まさよし、1900年〈明治33年〉11月3日[1] - 2000年〈平成12年〉11月10日[1])は、日本の政治家。1957年から1973年まで4期16年の間、横須賀市長を務めた。
1900年横浜市戸塚区舞岡町生まれ。1924年に広島高等師範学校を卒業し、旧制中学の教員となる。その後、横須賀市教育長などの職を経て、1957年に横須賀市長選に立候補、当時の現職市長・梅津芳三を破って当選した。主な支持母体は旧社会党と労働組合であったが、自民党衆議院議員・小泉純也の支援もあったといわれる。
米軍基地を抱える横須賀市における革新系市長として市政の運営にはさまざまな苦労が伴った。それを象徴する出来事が、空母ミッドウェイの母港化を認めるという苦渋の選択(1972年)であった。
エピソード[編集]
旧制中学(神奈川県立横浜第一中学校)教員時代に障害のある生徒が受験を希望してきた。周囲は前例がないと反対したが、長野が自分が担任となり責任を持つと発言したことで受験が可能となったという。その生徒は、後に横浜市長・社会党委員長となる飛鳥田一雄であった。さらに後の横須賀市長転身の契機が、当時社会党衆議院議員であった飛鳥田一雄の薦めであり、彼も師の選挙を手伝ったという(「生々流転 飛鳥田一雄回想録」p15・17)。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、162頁。
|
---|
官選 |
- 鈴木忠兵衛1907.5.17-1909.4.18
- 鈴木福松1909.9.14-1911.1.9
- 田辺男外鉄1911.7.15-1917.7.14
- 奥宮衛1917.10.6-1923.7.14
- 市長職務管掌 林茂1923.7.31-1923.10.9
- 奥宮衛1923.10.9-1924.8.16
- 石渡坦豊1924.12.6-1927.5.26
- 岡田三善1927.7.4-1927.12.12
- 小栗盛太郎1928.3.12-1930.5.30
- 高橋節雄1930.9.22-1932.3.2
- 大井鉄丸1932.3.22-1933.5.15
- 三上文太郎1933.5.26-1934.4.18
- 小泉又次郎1934.5.15-1935.11.15
- 鈴木斎治郎1936.1.22-1938.8.10
- 久野工1938.9.27-1941.1.17
- 岡本伝之助1941.2.13-1943.4.17
- 梅津芳三1943.5.9-1947.1.3
|
---|
公選 |
- 太田三郎1947.4.8-1949.6.13
- 石渡直次1949.7.19-1953.6.24
- 梅津芳三1953.7.12-1957.7.9
- 長野正義1957.7.10-1973.7.9
- 横山和夫1973.7.10-1993.7.9
- 沢田秀男1993.7.10-2005.7.9
- 蒲谷亮一2005.7.10-2009.7.9
- 吉田雄人2009.7.10-2017.7.9
- 上地克明2017.7.10-現職
|
---|
カテゴリ |