長岡京
長岡京(ながおかきょう)は、784年(延暦3年)から794年(延暦13年)まで山城国乙訓郡に存在した日本の首都。現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にあった。
概要
長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40kmの長岡の地[1]に遷都して造営され[2]、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。
発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。
桓武天皇は自らの宮殿を街より15mほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。
歴史
「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、
等の説がある。784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武帝は天武系とは異なる天智系の天皇であった。
785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮と長岡京は淀川で通じていることから、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。
しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたことが明らかにとなり、親王は配流先で恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や皇后や皇太子の発病など様々な変事が起こったことからその原因を占ったところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その2ヵ月後の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し大きな被害を蒙ったことから、和気清麻呂の建議もあって遷都僅か10年後の794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。
発掘調査
なお、近年まで「幻の都」とされていたが、1954年(昭和29年)より、高校教員であった中山修一(後、京都文教短期大学教授)を中心として発掘が開始され、翌1955年(昭和30年)、大内裏朝堂院の門跡が発見されたのを皮切りとして、1962年(昭和37年)大極殿[3][出典 1]跡が発見され、今日までにかなり発掘調査が進み(当該地域で急速な宅地化、工業地化が進み、緊急調査を強いられ続けた側面もある)、1964年(昭和39年)に国の史跡に指定された。1967年(昭和42年)内裏内郭築地(ついじ)回廊北西部が確認され、1979年(昭和54年)内裏南方の重要官衙の存在を証明する遺構として大規模な築地塀が発見された。
発掘の結果わかったことは次の通りである。
- 未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、かなり完成した姿であった
- 平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であった。
また、その期間の短さから形だけの遷都であり、本来の目的は大規模な遷都への準備であり、方違えではなかったのかとの説もある。
脚注
出典
- ^ 山中章「長岡宮跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 34-35ページ
関連項目
先代 平城京 |
日本の首都 784年(延暦3年) - 794年(延暦13年) |
次代 平安京 |