野村愛正

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野村 愛正
(のむら あいせい)
誕生 1891年8月21日
日本の旗 日本鳥取県岩美郡国府町
死没 (1974-07-06) 1974年7月6日(82歳没)
職業 小説家脚本家、連句人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 鳥取中学(現鳥取県立鳥取西高等学校)卒業
活動期間 1891年 - 1974年
ジャンル 小説脚本連句
代表作 『明ゆく路』
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野村 愛正(のむら あいせい、1891年8月21日 - 1974年7月6日)は、日本小説家脚本家・連句人。

略歴

鳥取県岩美郡国府町生まれ。鳥取中学(現鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。鳥取新報社に入社。1914年上京。有島武郎に師事し『新潮』『中央公論』などに小説を執筆。代表作は『大阪朝日新聞』に連載された「明ゆく路」である。『三国志物語』(1940年、大日本雄弁会講談社刊行)は一世を風靡し三国志ブームの魁となった。著作は50冊を数える。また映画の脚本家としても活躍した。

日中戦争が激しさを増す1938年(昭和13年)、著名な作家らがペン部隊を編成して戦地に赴く中、野村も海軍に従軍願いを申請。同年10月までに認められている[1]

連句人として

連句人としては俳号牛耳で知られる。1943年根津芦丈に会い連句を知る。1953年頃海音寺潮五郎亭でひらかれた「ゴーロー連句会」を指導。1959年に結成された都心連句会では推されて捌きを担当。1973年に結成された義仲寺連句会を指導し、林空花、高鳥南万子、石川宏作、鈴木三余、わだとしお(村野夏生)、星野石雀等五十余人の連句実作者を養成した。[2]

著書

  • 『明ゆく路 大阪朝日新聞懸賞一等入選』新潮社 1918
  • 『土の霊 他二篇』新潮社 新進作家叢書 1918
  • 『黒い流』新潮社 1919
  • 『大地に立つ』春陽堂 日本小説文庫 1932
  • 『虹の冠』春陽堂 少年文庫 1932
  • 『木村久太郎翁』編 木村国治 1938
  • 豊臣秀吉』偕成社 偉人物語文庫 1941
  • 『海をひらく 長編小説』東光堂 1942
  • 『少年フイリッピン史』長谷川路可絵 宋栄堂 1942
  • ダバオの父太田恭三郎』偕成社 伝記文庫 1942
  • 『ヒマラヤの牙 探検科学小説』田中宋栄堂 1942
  • 『海獸 長篇小説』忠文館 1943
  • 『灯台の娘』大仙書房 1943
  • 北畠親房』偕成社 1944
  • 『鯨とともに 長篇小説』大鐙閣 1944
  • 『魔境の怪都』唄野蛾生絵 むさし書房 1948
  • 『密牢の叫び』田中良絵 偕成社 1948
  • 『魔境千里 冒險物語』大日本雄弁会講談社 1949
  • 『少年太閤記 日吉丸の卷』弘文社 1950
  • 『少年猛獣狩 三兄弟の冒険記』鈴木御水絵 講談社 1950
  • 『カムチヤッカの鬼』学風書院 世界ドキュメンタリー文庫 1956
  • 『髑髏の開拓地』学風書院 世界ドキュメンタリー文庫 1957
  • 『南海の快男児』矢島健三絵 講談社 少年少女日本歴史小説全集 1957
  • 『海の奇談』大陸書房 1968
  • 『泉は放射線に流れる』野村愛正遺作出版顕彰会 1976
  • 『海釣り奇談』大陸書房 1978
  • 『摩天楼―野村牛耳連句集』1975

翻訳・再話

脚注

  1. ^ 作家、映画監督ら十五人が海軍に従軍『東京朝日新聞』(昭和13年10月5日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p662 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 『連句辞典』(東京堂出版、1986年)225頁