重園贇雄
重園 贇雄 | |
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生誕 | 1908年 |
死没 | 1980年 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 音楽教師、作曲家 |
担当楽器 | ピアノ、声楽 |
重園 贇雄(しげぞの よしお、1908年 - 1980年[1])は、日本の作詞家、音楽教師。おもに「ひろしま平和の歌」の作詞者として知られる。
経歴
「ひろしま平和の歌」を作詞した当時は、広島県豊田郡豊田村の豊田中学校の教師であった[2]。
重園は、三原市の三原市立南方小学校[3]、東広島市の東広島市立豊栄中学校[4]、世羅町の世羅町立甲山中学校[5]、竹原市の広島県立忠海高等学校[6]など、広島県の数多くの学校の校歌の作詞を手がけた。
その他にも、呉市の経友クラブの会歌[7]、1956年4月にレコードが発売された「日本体操祭の歌」[8]、1951年3月にレコードが発売された「ペンギンさん」[9]などの作詞を行なった。
「ひろしま平和の歌」
1947年の半ばに、当時の広島市長で、広島市を平和運動の中心地とすることを提唱していた浜井信三は、「8月6日に焦点を会わせた大規模な平和祭典を開催すれば、人々に対する強いアピールになろうし、それは国外にも及ぶだろう」と考えていた広島市観光協会 (Tourism Association of the City of Hiroshima) の石島治志の発案による計画を採り上げた[10]。
1947年6月には、広島平和祭協会が創設され、浜井が会長、石島が副会長となり、7月には「平和の歌」の歌詞の公募が行なわれて22日に「ひろしま平和の歌」が選ばれた[2]。選ばれた重園の歌詞に曲を付けた山本秀も、音楽教師であった[11]。この歌は、同年8月6日の広島平和祭(後の広島平和記念式典の前身)で初演され、以降、朝鮮戦争が勃発し原子爆弾の使用の可能性が取りざたされる中で占領軍当局からの圧力によって式典が中止された1950年を除いて、毎年歌われ続けている[10]。
脚注
- ^ “ひとりの教師像 : 重園贇雄の足跡と歌”. 2015年8月23日閲覧。
- ^ a b “ヒロシマの記録1947 7月”. 中国新聞/ヒロシマ平和メディアセンター. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “南方小学校校歌”. 三原市. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “校歌 豊栄中学校校歌”. 東広島市. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “校長あいさつ 世羅町立甲山中学校校歌”. 世羅町. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “校歌”. 広島県立忠海高等学校. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “経友クラブ クラブの概要 経友クラブとは”. 経友クラブ. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “歴史的音源 日本体操祭の歌”. 国立国会図書館. 2015年8月23日閲覧。
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション ペンギンさん”. 国立国会図書館. 2015年8月23日閲覧。
- ^ a b “History of Hiroshima: 1945-1995 (Part 2, Article 2) | Hiroshima Peace Media Center”. Hiroshimapeacemedia.jp (2012年8月1日). 2015年8月25日閲覧。
- ^ “ひろしま平和の歌”. 広島市. 2016年6月17日閲覧。
参考文献
- ひとりの教師像: 重園贇雄の足跡と歌, 1981年
- 重園贇雄先生を偲ぶ: 続ひとりの教師像, 1988年