辛未洋擾
辛未洋擾 | |
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徳津鎮攻略を喜ぶ米将兵 | |
各種表記 | |
ハングル: | 신미양요 |
漢字: | 辛未洋擾 |
発音: | シンミヤンヨ |
日本語読み: | しんみようじょう |
ローマ字: | Sinmiyangyo |
辛未洋擾(しんみようじょう、신미양요、シンミヤンヨ)とは、ジェネラル・シャーマン号事件を発端として1871年(明治4年)に起きた、アメリカ合衆国の艦隊による朝鮮襲撃事件である[1]。
発端
1866年、ジェネラル・シャーマン号事件により、武装商船シャーマン号が消息を絶った。
1867年1月、アメリカはシャーマン号の乗組員の安否を確認するために軍艦ワチュセット (USS Wachusett) を派遣し[1]、翌1868年4月には事件の究明のため軍艦シェナンドア (USS Shenandoah) を派遣した[1]。
そして1871年、清に駐在していたアメリカ公使のフレドリック・ローは、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めてアジア艦隊に朝鮮襲撃を命令した[2]。同年4月、アメリカのアジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズ (John Rodgers) は日本の長崎で艦隊を編成した[3]。同年5月にロジャーズは旗艦コロラド (USS Colorado)、アラスカ (USS Alaska)、パロス (USS Palos)、モノカシー (USS Monocacy)、ベニシア (USS Benicia) の5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった[4]。
襲撃
1871年6月10日、米軍は江華島の草芝鎮と、次いで徳津鎮を襲撃した。激しい砲撃戦を経て、アジア艦隊は陸戦隊を上陸させることに成功し、草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した[4]。しかし、砲台を占領された朝鮮軍は夜襲を仕掛けてこれを奪還した[4]。
大院君は、持久戦に引きずり込めば丙寅洋擾時のフランス軍のようにアメリカ艦隊も撤退すると分析して強硬姿勢を貫いた[2]。大院君の予想通り[2]、アメリカ艦隊には大規模な行動を起こす余力がなく[2]、ついに交渉を諦め、20日余りで、清内の拠点に撤退した[3]。アメリカ艦隊は朝鮮の砲台を圧倒したが、地理に疎い陸上部隊は朝鮮軍の粘り強い奇襲攻撃に対して取るべき手段を持ちえていなかった[3]。
この戦闘で朝鮮軍は77名、アメリカ軍は13名の死者を出すこととなり、アメリカ軍は開国を諦め撤退した[要出典]。
事後
勝利を収めた[2]大院君は、「洋夷侵犯 非戰則和 主和賣國 / 戒吾萬年子孫 丙寅作 辛未立」と欧米への抗戦の意思を刻んだ「斥和碑」を全国各地に建て[2]、固い決意を以って鎖国攘夷の考えを示し[1]、民衆の支持を得た[4]。
アメリカ政府は海外での紛争に対しては初めての米国議会名誉勲章を9人の水兵と6人の海兵隊員に与えた[5]。
画像
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USSワチュセット(1867年)
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司令官ジョン・ロジャーズ
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USSモノカシー(1864年)
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USSコロラド上の士官たち(事件中)
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陥落直後の広城鎮内
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USSコロラドに乗船した朝鮮の急使
脚注
参考文献
- 伊藤亜人他監修 平凡社編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年
- 姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年
- 朝鮮史研究会編著 旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』三省堂、1974年
- 李景珉監修 水野俊平著『韓国の歴史』河出書房新社、2007年