赫連勃勃

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武烈帝 赫連勃勃
初皇帝
王朝
在位期間 407年 - 425年
姓・諱 赫連勃勃
劉勃勃(漢風名)
諡号 武烈皇帝
廟号 世祖
生年 381年
没年 425年
劉衛辰
陵墓 嘉平陵
年号 龍昇 : 407年 - 413年
鳳翔 : 413年 - 418年
昌武 : 418年 - 419年
真興 : 419年 - 425年
※音訛して赫連佛佛とも作る。

赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)は五胡十六国時代(大夏)の創建者。

経歴

匈奴鉄弗部の出身であり、前趙独孤部破六韓部と同族である。なお、鉄弗とは匈奴の父と鮮卑の母をもつ意であるという。勃勃は後漢末の南匈奴の右賢王去卑の後裔で、劉衛辰の第3子である。

父の劉衛辰はオルドス代来城に割拠し、前秦苻堅の西単于であった。383年に前秦が淝水で敗れると衛辰は勢力を伸ばし、後秦からは大将軍大単于・河西王・幽州に拝され、西燕からは大将軍・朔州牧に拝されて懐柔を受けた。

390年から391年まで、衛辰は3度北魏を攻めるが敗れ、同年北魏の道武帝に攻められて殺された。勃勃は三城郡の鮮卑叱干部へ逃れ、ついで高平郡の鮮卑破多蘭部の没奕干のもとへ逃れ、没奕干の娘を娶った。なお、399年に勃勃の弟の劉文陳は北魏へ降り、宿六斤氏を賜っている。392年に没奕干と共に後秦へ降った勃勃は、姚興により驍騎将軍に任ぜられ、奉車都尉を加えられた。ついで安遠将軍に進み、陽川侯に封ぜられた。また安北将軍に昇り、五原公に改封され、鮮卑雑虜二万余落を統括して朔方郡に鎮した。

407年、勃勃は没奕干を殺してその部衆を併せ、後秦と通交のあった柔然の使者を拘束して反旗を翻し、大夏天王・大単于と称して国号を大夏、建元して龍昇元年とした。同年、姑臧に割拠していた南涼の禿髪傉檀を攻めて大いに破り(陽武の戦)、また後秦の遠征軍を破って(青石原の戦)オルドスを平定した。その後、勃勃は盛んに南下して後秦を攻めたが、オルドス南境にある杏城・安定の要害を陥せず417年まで膠着状態が続いた。

413年、勃勃はオルドスの地に統万城を築き、劉氏から赫連氏に改めた。また414年に北燕と、415年に北涼と盟を結んで、北魏・後秦、北魏・西秦同盟に対抗した。417年、東晋劉裕が北伐して長安(常安)を占領し、後秦を滅ぼした。同年、劉裕が子の義真を留めて南帰すると、勃勃は兵を四軍に分けて関中平原へ進出し、翌418年に長安を攻略して皇帝を称した。勃勃は統万城に北地尹を置いて都と定める一方、長安には南台を置いて南都とし、翌419年に真興と改元した。この真興元年をもって大夏成立と見なす研究もある。

424年、勃勃は長安で駐屯した第2子の大将軍・皇太子の赫連璝を廃嫡し、第4子の赫連倫を太子に立てた。前太子のは父に反撥して長安で挙兵し、統万城へ攻め上って異母弟の倫を敗死させたが、同じく異母弟の赫連昌(勃勃の第3子)に敗れて殺害された。勃勃は、改めて昌を皇太子とした。425年、勃勃は45歳で病没し、嘉平陵(陝西省延川県説と甘粛省慶陽県説がある)に葬られた。一説に、落雷が死因であるという。

勃勃の性格は凶暴残忍で殺戮を好んだといわれ、仏教説話にも勃勃が関中を占領した際、仏僧を大量に虐殺したと記す。一方では、人並み外れた風貌や見識は姚興や劉裕を酔わせたとも記す。勃勃の業績としては、中国史上初めて馬面をひるがえらせた城郭建築法や、史上二番目の年号を記した貨幣「太夏真興」の鋳造などが挙げられる。

先代
皇帝
407年 - 425年
次代
赫連昌