去卑

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去卑呉音:くひ、漢音:きょひ、拼音:Qùbēi、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての南匈奴屠各種攣鞮部の一族で、甥の呼廚泉単于の代に右賢王[1]となる。誥升爰の父。潘六奚破六韓部の始祖)の兄弟か従兄弟。鉄弗部の祖で、を建国した赫連勃勃はその後裔である。『北史破六韓常伝では、羌渠単于の弟、『新唐書』宰相世系表では、烏利の子で、劉猛の兄と記されている(後述)。

生涯[編集]

興平2年(195年)、甥の持至尸逐侯単于於夫羅が死去し、その弟の呼廚泉が単于となると、その叔父である去卑は右賢王となる。11月、献帝長安を脱出して洛陽に向う際、それを護衛する楊奉董承らは白波賊帥の胡才李楽韓暹および南匈奴の右賢王去卑を招きよせ、迫り来る李傕郭汜らを撃退して首級数千を挙げた。12月、ふたたび李傕らに追撃され、楊奉らは敗北する。その後、車駕はなんとか安邑まで逃れる。この間に、去卑の部伍のものによって蔡琰が拉致されたと言われる。

建安元年(196年)1月、献帝は安邑にて天下に大赦し、建安と改元した。7月、ようやく車駕は洛陽へたどりついた。その後、去卑らは天子を擁立した曹操許昌への遷都にも随行した後、帰国した。

建安21年(216年)7月、単于呼廚泉が漢に入朝すると、魏公に就任した曹操は彼をに抑留し、代わって去卑に南匈奴諸部を監督させた。

世系について[編集]

去卑の子孫は、『魏書』(劉虎伝)などにより把握できるが、去卑の祖先は諸説あるものの、確かな資料がないため定かではない。

  • 北史』(破六韓常伝)において、「呼廚貌(呼廚泉)は漢に入朝し、魏武(曹操)に抑留せられ、その叔父の右賢王去卑に本国を監督させた」とある。つまり、去卑は羌渠の弟となる。
  • 新唐書』(宰相世系五下)において、「 (前略)…度遼将軍の(劉)進伯は匈奴を撃つが、敗れて捕えられ、孤山下に囚われる。(進伯は)尸利を生み、単于は谷蠡王となし、独孤部と号す。尸利は烏利を生む。烏利には二子があって去卑、といった。…(以下略)」とある[2]

脚注[編集]

  1. ^ 後漢書』(献帝紀)、『魏書』(劉虎伝)では左賢王となっている(一方晋書劉元海載記はこの時の左賢王を劉豹とする)。
  2. ^ 『新唐書』(宰相世系五下)「独孤氏の出自は劉氏。後漢の世祖は沛献王を生み、輔は釐王定を生み、定は節王丐を生む。丐には二子があって広、廙といった。廙は洛陽令となり、穆を生む。穆は度遼将軍の進伯を生む。進伯は匈奴を撃つが、敗れて捕えられ、孤山下に囚われる。尸利を生み、単于は谷蠡王となし、独孤部と号す。尸利は烏利を生む。烏利には二子があって去卑、猛といった。猛は副侖を生む。副侖は路孤を生み、路孤はを生み、眷は羅辰を生む。羅辰は後魏(北魏)の孝文帝の洛陽遷都に随い、河南人となり、初めてその部を氏となし、定州刺史、永安公となる。羅辰は廷尉貞公の万齢を生み、万齢は稽を生む。稽は字を延平といい、鎮東将軍、文公となる。稽は鎮東将軍の帰を生み、帰は冀を生む」

参考資料[編集]