西島助義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。2400:4053:67a4:c700:757f:7bcf:452e:a910 (会話) による 2021年6月29日 (火) 18:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎栄典)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

西島 助義
にしじま すけよし
生誕 1847年10月11日
日本の旗 日本長州藩
死没 (1933-02-08) 1933年2月8日(85歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1873 - 1911
最終階級 中将
テンプレートを表示

西島 助義(にしじま すけよし、1847年10月11日弘化4年9月3日) - 1933年昭和8年)2月8日)は、日本の陸軍軍人。通称は吉太郎。陸軍中将正二位勲一等功二級男爵

略歴

1847年長州藩士の子弟として生まれる。戊辰戦争には分隊長として出征した。

維新後の1873年(明治6年)2月、陸軍少尉に任官。1874年(明治7年)2月、佐賀の乱では反乱軍の捕虜となる。1893年(明治26年)2月、歩兵第11連隊長として日清戦争に出征。1894年(明治27年)11月に歩兵大佐1896年(明治29年)12月に歩兵第44連隊長、1897年(明治30年)2月に陸軍教導団長、1898年(明治31年)3月には陸軍少将に昇進して歩兵第24旅団長、1900年(明治33年)1月には台湾守備混成第3旅団長をつとめた。

1902年(明治35年)2月、歩兵第7旅団長として日露戦争に出征。南山の戦い得利寺の戦い大石橋の戦い遼陽会戦に参戦する。1904年(明治37年)9月には陸軍中将に進み、西寛二郎大将に代って第2師団長として奉天会戦を戦った。

1905年(明治38年)5月に勲一等瑞宝章1906年(明治39年)4月には勲一等旭日大綬章を授けられた。同年7月、第6師団長。1907年(明治40年)9月21日、日清・日露戦役における軍功により男爵を授けられる。1909年(明治42年)9月に休職し、1911年(明治44年)9月、後備役に編入となった。1916年(大正5年)4月1日に退役した[1]

1933年昭和8年)2月、死去。享年85。

栄典

位階
勲章等

乃木希典についての証言

  • 後年、西南戦争後の乃木希典による自殺未遂事件について述べている。戦後、乃木は敵方に軍旗を奪われた不祥事を悔いていたが、ある時、乃木が割腹しようとする場を目撃した西島は、居合わせた児玉源太郎とともに必死に説得して自殺を止めさせた。この事件は3人だけの秘密となったが、明治天皇に殉死した乃木の死後、西島は「児玉も既に死したから、今さら秘密にすることはなかろう。」として秘話を後世に伝えている[要出典]

脚注

  1. ^ 『官報』第1115号、大正5年4月22日。
  2. ^ 『官報』第681号「叙任」1885年10月6日。
  3. ^ 『官報』第2621号「叙任及辞令」1892年3月29日。
  4. ^ 『官報』第3485号「叙任及辞令」1895年2月14日。
  5. ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
  6. ^ 『官報』第5972号「叙任及辞令」1903年6月1日。
  7. ^ 『官報』第6582号「叙任及辞令」1905年6月10日。
  8. ^ 『官報』第7512号「叙任及辞令」1908年7月11日。
  9. ^ 『官報』第7874号「叙任及辞令」1909年9月21日。
  10. ^ 『官報』第3273号「叙任及辞令」1894年5月30日。
  11. ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
  12. ^ 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
  13. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  14. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  15. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  16. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
西島(助義)家初代
1907年 - 1933年
次代
西島助継