蒲原有明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。114.190.231.103 (会話) による 2014年9月8日 (月) 23:39個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎詩集)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年明治8年)3月15日 - 1952年昭和27年)2月3日)は、日本詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。

D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋三木露風らに影響を与えた。

生涯

蒲原有明

東京麹町隼町に、蒲原忠蔵、石川ツネ(1879年入籍、のち離婚)の子として生れた。地名にちなみ隼雄と名付けられた。生まれつき体が弱かった。平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府尋常中学校(現・都立日比谷高校)を卒業し、第一高等中学校(のちの一高)を受験したが失敗。国民英学会で学び、卒業後小林存山岸荷葉らと同人雑誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。

読売新聞の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する。巌谷小波の木曜会に顔を出すようになり、D.G.ロセッティの訳詩や、新体詩集『草わかば』を出版した。さらに上田敏の訳詩に強く影響を受け、『独絃哀歌』『春鳥集』を刊行し象徴主義を謳歌。このころ青木繁と親交を結ぶ。

1908年に刊行した『有明集』で象徴詩手法を確立し、薄田泣菫と併称された。だがすでに時代は自然主義の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正以後は文壇を離れ、詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や散文詩の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。

1919年に鎌倉に移り、関東大震災後は静岡へ移転。この際改修した自宅は貸家とし、1945年から1年間川端康成が泊まっていた。敗戦後は鎌倉に戻った。自伝『夢は呼び交わす』を刊行後の1948年、日本芸術院会員に選ばれる。1952年2月3日、急性肺炎のため77歳で死去した。墓は元麻布賢宗寺にある[1]

著作

  • 草わかば(1902年1月、新声社)
    • 草わかば(オンデマンド版、平凡社、2009年3月)
  • 独絃哀歌(1903年5月、白鳩社)
    • 独弦哀歌(オンデマンド版、平凡社、2009年3月)
  • 春鳥集(1905年7月、本郷書院)
  • 有明集(1908年1月、易風社)
  • 有明詩集 アルス 1922
  • 有明詩抄 岩波文庫 1928 (復刊1994ほか)
  • 随筆 飛雲抄 書物展望社 1938。復刻:近代作家研究叢書・日本図書センター 1989
  • 野ざらしの夢 生活社 1946 (日本叢書)
  • 夢は呼び交す 黙子覚書 東京出版 1947
  • 有明全詩抄 酣灯社 1950 (詩人全書)
  • 蒲原有明全詩集 創元選書 1952
  • 蒲原有明詩集 新潮文庫 1952 (矢野峰人編)
  • 蒲原有明詩集 角川文庫 1953 (野田宇太郎編)
  • 定本蒲原有明全詩集 蒲原有明全詩集刊行会編 河出書房 1957
  • 現代詩文庫 蒲原有明詩集 思潮社 1976
  • 夢は呼び交す 岩波文庫 1984(野田宇太郎解説)
  • 近代浪漫派文庫15 蒲原有明 薄田泣菫新学社 2007
    • 蒲原有明詩抄・ロセッティ訳詩・飛雲抄

関連項目

外部リンク