巌谷小波

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巖谷小波

巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日明治3年6月6日) - 1933年昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家児童文学者。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)がある。

経歴[編集]

医学を拒否して文学へ[編集]

東京府東京市麹町区出身。巖谷家は近江水口藩の藩医の家柄である。父の巌谷一六は水口藩の徴士として新政府に出仕し、書家として認められ、政府の公文書を書き下ろす書記官の仕事にあたっていた。八重は一六の2番目の妻で、父にとって6番目、母には4番目の子が季雄である。身ごもっていた母は、父一六に呼ばれ上京し、東京で季雄を生んだが、小波の当初本籍は滋賀県にあった。母はその年の10月1日に肺炎で死んだ[1]

父は官途で栄達しのち貴族院議員となり、季雄は裕福な家庭に育った。10歳のとき、兄巌谷立太郎が留学先のドイツから『オットーのメルヘン集』というドイツ語の本を贈ってきた。ヨーロッパの昔話や童話を多数おさめたこの本を、立太郎は医師になるために必要なドイツ語の勉強のために送ったようだが、季雄はむしろ文学に目覚めることとなった[2]

獨逸学協会学校(現:獨協中学・高等学校)へ入学するが、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄、1887年(明治20年)文学結社の硯友社に入る。尾崎紅葉らと交わって、機関誌「我楽多文庫」に『五月鯉』(さつきごい)などの小説を発表したが、少年少女のセンチメンタルな恋愛を描く作品が多かった。

児童文学者へ転進[編集]

1891年(明治24年)、博文館の「少年文学叢書」第1編として出版した児童文学の処女作『こがね丸』が、近代日本児童文学史を開く作品となり、以後博文館と組んで児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や叢書を刊行した。転進前の小説の多くは清純な魅力とともに感傷的な一面もあり、小説としては未熟ともいえた。その点でこの転進は文学的にも大きな成功だった。

お伽噺を開拓[編集]

作品の多くは彼自身が編集する博文館発行の雑誌「少年世界」に掲載された。以後同社の「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などの主筆となって作品を執筆、さらに「日本昔噺」(1894~96年)、「日本お伽噺」(1896~98年)、「世界お伽噺」(1899~1908年)など、大部のシリーズを刊行した。今日有名な『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届いたもので、日本近代児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。その作品は膨大な数に上ったが、1928年から30年にかけてその代表的なものが『小波お伽全集』(千里閣版・全12巻)にまとめられた。

口演童話、児童劇を開拓[編集]

内外の昔話や名作をお伽噺として平易に書き改める仕事のほか、童話の口演や戯曲化も試み、全国を行脚してその普及に努めた。後進の指導にも熱心で、創作家のみならず、童話口演の分野でも新人を育てており、近代児童文学の生みの親である。自伝『我が五十年』(1920年)、息子で文芸評論家巖谷大四による『波の跫音(あしおと)― 巖谷小波伝』(1974年)がある。

作詩[編集]

1911年に作った文部省唱歌ふじの山』の作詩者としても知られる他『一寸法師』も小波の作詞である。また滋賀県甲賀市立水口小学校校歌など各地の校歌の作詩も手掛けている。

親族[編集]

巌谷一六貴族院勅選議員で書家。明治の三筆の一人。
冨森幽香は水口教会宣教師ののち同志社女学校舎監。冨森家は赤穂浪士の一人富森正因の子孫
長男巌谷槇一劇作家演出家
次男巌谷栄二は児童文学研究家。
栄二長男の巖谷國士仏文学者評論家
三男巖谷平三映画監督演出家
平三長男の巖谷鷲郎映画監督、のち文芸評論家
四男巌谷大四文芸評論家
大四三男の巖谷純介ブックデザイナー
次女三八子
次男橋口稔英文学者東大名誉教授。稔の叔父橋口収大蔵主計局長。
三女きの江 夫藤林益三最高裁長官、のち弁護士
益三次男の藤林道夫仏文学者

関連項目[編集]

  • 武内桂舟 「こがね丸」、「少年世界」掲載の作品の挿絵画家
  • 久留島武彦 小波に認められて作家となり、後に口演童話の普及に協力した。
  • 岸辺福雄 小波に賛同して口演童話の理論を確立して、今日の読み聞かせ教育に至る基礎を築いた。

脚注[編集]

  1. ^ 巌谷大四「巌谷家の系譜」173-174頁。
  2. ^ 巌谷大四「巌谷家の系譜」177頁。三浦正雄「巌谷小波の怪異観」47頁。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]