菅原峻
すがわら たかし 菅原 峻 | |
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生誕 |
1926年 北海道二海郡八雲町 |
死没 | 2011年6月24日 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 法政大学 |
職業 | 図書館コンサルタント |
団体 |
日本図書館協会(1953年-1978年) 図書館計画施設研究所(1978年-) |
菅原 峻(すがわら たかし、1926年 - 2011年6月24日)は、北海道二海郡八雲町出身の図書館コンサルタント。「日本初の図書館コンサルタント」であるとされることがある。25年間にわたって日本図書館協会に勤務して『中小レポート』などに関与した後、図書館計画施設研究所を創設して独立した。
経歴
若き頃
1926年(昭和元年)に北海道渡島支庁の二海郡八雲町に生まれ、旧制北海道庁立八雲中学校を卒業後に八雲町役場に就職した[1]。日中戦争時には少年兵として志願し、神奈川県高座郡相模原町淵野辺の兵器学校で特別幹部候補生となったが、1945年(昭和20年)8月の終戦後には復員して八雲町役場に復職した[1]。戦後に八雲町役場教育委員会が新設されると、教育委員会で公民館図書室の運営などに携わった[1]。なお、役場に勤めながら夜間には新制高校の定時制で学んだ。
公民館時代に『農村図書館』『光村々に』(柏葉書院)と出会って“未来の図書館の姿”を見つけると、北海道では先進的な図書館として知られていた市立函館図書館に列車で3時間かけて赴き、岡田健蔵の娘であり司書の岡田弘子に指導を受けている[1][2]。岡田弘子の出身校である文部省図書館職員養成所の存在を教えられると、八雲町役場を退職して上京し、1951年(昭和26年)から図書館職員養成所と法政大学夜間部に通って図書館情報学を学んだ[1]。図書館職員養成所の同期には前川恒雄(日野市立図書館初代館長、図書館情報学者)や砂川雄一(日野市立図書館第2代館長)らがいる。
日本図書館協会
1953年(昭和28年)3月に文部省図書館職員養成所を卒業し、4月に社団法人日本図書館協会に勤務した。菅原の在職中の日本図書館協会は、1963年(昭和38年)に画期的な『中小レポート』を、1971年(昭和46年)に中小レポートを発展させた『市民の図書館』という提言をまとめている。『市民の図書館』の中心となったのは前川だが、のちに刊行された増補版を執筆したのは菅原である[1]。中小レポートでは公共図書館のあるべき姿が明確になったとされ、1970年代には東京都の日野市立中央図書館、町田市立図書館、昭島市民図書館、千葉県の千葉市立北部図書館、広島県の福山市民図書館など、高い評価を受ける図書館が続出した。菅原はアメリカ合衆国、北欧、東欧などを視察して世界各地の図書館に精通しており、1975年(昭和50年)にはフィンランドで開催されたユネスコ図書館建築会議に参加している。
図書館計画施設研究所
日本図書館協会では総務部長の要職にあったものの、1978年(昭和53年)3月に日本図書館協会を退職し、図書館計画施設研究所を創設した。図書館計画施設研究所が基本計画を策定した図書館は100館を超え、佐賀県の伊万里市民図書館、福岡県の苅田町立図書館、埼玉県の小川町立図書館、千葉県の君津市立中央図書館などが挙げられる[1]。故郷の北海道では唯一の存在として石狩市民図書館がある[1]。1981年(昭和56年)には全国の図書館活動について記した雑誌『としょかん』を創刊し、この雑誌は菅原の死後の2015年(平成27年)まで、24年間にわたって100号の発行が行われた。
著書
単著
- 菅原峻『アメリカ図書館四十日』日本図書館協会、1971年。
- 菅原峻『母親のための図書館』晶文社、1980年。
- 菅原峻『これからの図書館』晶文社、1984年。ISBN 4-7949-5670-3。
- 菅原峻『情報と遊びのある広場 塩竈市民図書館の計画に参加して』日本ファイリング、1992年。
- 菅原峻『図書館きのう・今日・あす』図書館計画施設研究所、1996年。
- 菅原峻『図書館の明日をひらく』晶文社、1999年。ISBN 4-7949-6418-8。
- 菅原峻『図書館友の会養生訓』2007年。
翻訳書
- R.ミラー(著)『公共図書館の計画とデザイン』日本図書館協会、1978年
脚注
参考文献
- 「境界人、菅原峻の途中総括」『ず・ぼん』ポット出版、第6号、1999年
- 丹羽秀人「菅原峻先生の思い出」『北の図書館』第18号、2012年
外部リンク
- 季刊「としょかん」誌 所蔵図書館 (google map)
- 図書館講座「石狩市民図書館ストーリー」 (PDF) - 2009年5月17日 石狩市民図書館での講演 (告知 (PDF) )
- 菅原峻氏図書館講話集 - 宮田町(現 宮若市)での講演