細川興生

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細川 興生【ほそかわ おきなり 1699年元禄12年)- 1737年2月6日元文2年1月7日)】は、肥後国宇土藩の第3代藩主。


第2代藩主、細川有孝の長男。母は坂口氏(妙持院)。正室は水戸支流松平頼貞の娘、戒光院。側室は児玉氏(了心院)と竹内氏。子に細川興里(長男)、細川興道(次男)、細川興文(三男)、なを(娘 京極高永正室/京極高永死後は梅寿院に改めた)[1]、名は不明(娘 柳沢保卓正室)。官位は従五位下、伊豆守、山城守。


1703年(元禄16年9月6日)、父である細川有孝が病を理由に隠居した為、その跡を継ぐ。この時の名は有清であったが、後に興生に改めた。1717年享保2年1月)、江戸町の火事の時に、一橋門の警護で功を挙げた。1735年(享保20年11月2日)、病を理由に隠居して家督を長男の興里に譲り、自らは梅山と改めた。そして1737年(元文2年1月7日)、39歳で死去した。

脚注

  1. ^ “よみがえる江戸の彩 日本最古の押花展”. 豊岡市立出土文化財管理センター. (2006年). http://www3.city.toyooka.lg.jp/debun/060511hana1/html/tenji04.html