神山復生病院
神山復生病院 | |
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情報 | |
正式名称 | 財団法人神山復生病院 |
英語名称 | Koyama Fukusei Hospital |
標榜診療科 | 内科、循環器科、リハビリテーション科、皮膚科、心療内科 |
許可病床数 |
60床 一般病床:20床 療養病床:40床 |
機能評価 | 一般・療養100床未満:Ver5.0 |
開設者 | 財団法人神山復生病院 |
管理者 | 飛澤彰(院長) |
開設年月日 | 1889年5月22日 |
所在地 |
〒412-0033 静岡県御殿場市神山109 |
位置 | 北緯35度14分14秒 東経138度55分22秒 / 北緯35.23722度 東経138.92278度 |
二次医療圏 | 駿東田方 |
特記事項 | 現存する日本最古のハンセン病療養所 |
PJ 医療機関 |
神山復生病院(こうやまふくせいびょういん)は、1889年(明治22年)5月22日に、静岡県御殿場市神山にて設立された病院。日本に現存する最古のハンセン病療養所である。パリ外国宣教会の神父・テストウィドにより設立された。2009年に創設120年目を迎えた。現在は一般外来、病棟、ホスピス病棟を備える。
歴史
- 1883年 - テストウィド神父、水車小屋に住む5、6名のハンセン病患者に会い、訪問するようになる。
- 1886年 - 一軒の家屋を借りて患者を保護する。
- 1888年 - 駿河郡富士岡村字神山に土地を購入。
- 1889年 - 5月16日、郡長の名前で開設許可。22日を開設日とする。
- 1891年 - 神父体調をくずし離日、8月4日香港にて昇天。第2代目院長にヴィクルー神父着任。
- 1893年 - ベルトラン神父第3代院長。年度末在院患者数は97。
- 1915年 - アンドリュー神父第4代院長。
- 1918年 - レゼー神父第5代院長。
- 1923年 - 井深八重、ただ一人の看護婦として着任。
- 1930年 - レゼー神父昇天。岩下壮一神父第6代院長へ。
- 1940年 - 岩下院長昇天。千葉大樹神父院長へ。
- 1951年 - 林富美子医師常勤へ。
- 1952年 - 地域のために聖マリア診療所を開設。
- 1961年 井深八重婦長、フローレンス・ナイチンゲール記章受賞。
- 1989年 - 5月15日、井深八重名誉婦長昇天、翌日神山復生病院百周年記念式典が行われた。
- 1996年 - 4月1日、らい予防法の廃止に伴い、らい病床を一般病床に編入[1]。
- 2002年 - 4月、施設再整備により一般20床、療養40床(ハンセン病患者対象の病床17床を含む)の計60床に再編される[1]。
- 2006年 - 神山復生病院の記念館が国の登録有形文化財(建物)に指定される。
- 2009年 - 5月16日、120周年記念式典が行われた。在院者数8名。
診療科
復生記念館
1897年に建設され、2002年まで事務本館として使用された建物。
現在は病院の年表、歴代院長の写真、患者が使用した物品をはじめ、皇室関係の記念品や、第6代目院長の岩下神父、初代婦長の井深八重の資料・遺品を展示している。
活躍した院長
レゼー神父(1918年 - 1930年)の意見
1919にハンセン病療養所長の会合があったが、当時は離れ島に患者を隔離する案があった。
院長の発言「モロカイ島患者の待遇はひどく、そのために騒動があり、患者たちは互いに殺しあった。これはダミアン神父が行ってから改善された。日本政府は患者を孤島に送って何をするのか。患者は何も怖れない。私の病院は患者が72人で皆、兄弟、私が親である。喧嘩はない。孤島隔離が駄目です。」[2]
「患者の結婚について、リデルさんが言われた通り、結婚すべからずという法律を建てる。」[3]
岩下壮一神父(1930年 - 1940年)
5カ年計画を立て、医療設備を充実させた。熊本の回春病院とハンナ・リデルを訪問している。多くの人に会い、施設を発展させた。
詳細は「岩下壮一」を参照
誤診をきっかけにハンセン病患者に献身した婦長
詳細は「井深八重」を参照
交通アクセス
文献
- 『神山復生病院120年の歩み』神山復生病院、2009年
脚注
- ^ a b 病院機能評価結果の情報提供(日本医療機能評価機構)による。
- ^ 山本俊一『日本らい史』東京大学出版会、p.95
- ^ 山本俊一『日本らい史』東京大学出版会、p.104