矢沢宰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

矢沢 宰(やざわ おさむ、1944年5月7日 - 1966年3月11日)は新潟県見附市出身の詩人

略歴[編集]

  • 1944年(昭和19年)5月7日、父の勤務先だった中華民国江蘇省海州に生まれる。
  • 1945年(昭和20年)7月、父の現地召集に伴って、母の出身地だった新潟県見附市河野町(当時は古志郡上北谷村)に移住する。
  • 1951年(昭和26年)4月、見附市立上北谷小学校に入学。
  • 1952年(昭和27年)12月、復員した父から感染して腎臓結核を発症する。
  • 1953年(昭和28年)4月、新潟大学医学部附属病院で右腎摘出手術を受ける。その後は入退院を繰り返し、小学校にもほとんど行くことができなかった。
  • 1957年(昭和32年)12月、残った左腎臓にも結核発病。
  • 1958年(昭和33年)3月、同級生より1年遅れて小学校を卒業する。同年、県立三条結核病院小児科に入院する。宰が14歳の同年10月頃より詩を、11月頃より日記をつづり始める。病は重く、絶対安静を命じられていた宰は、手鏡で周りを見ては鉛筆大学ノートに詩や文章を書きつづった。
  • 1959年(昭和34年)5月、詩集「それでも」を手づくりで編む。
  • 1960年(昭和35年)8月、詩集「詩の散歩」を自装で編む。
  • 1961年(昭和36年)4月、病状の回復に伴い、病院併設の県立三条養護学校に入学する。
  • 1963年(昭和38年)3月、養護学校中学部を特別進級で卒業する。奇跡的な回復を見せて5年ぶりに退院し、自宅に戻る。同年4月、新潟県立栃尾高等学校に入学、文芸部に所属する。
  • 1965年(昭和40年)3月、腎臓結核が再発し、三条結核病院に再入院する。
  • 1966年(昭和41年)、劇症肝炎を併発し、3月11日に21歳で死去。
    • 宰の没後、栃尾高校文芸部により遺稿詩集「それでも」が発行される。また三条結核病院の有志ほかにより、遺稿詩集「光る砂漠」が自費出版される。
    • 母のレウが、この2編を毎日新聞「母と子のうた」の担当者である周郷博に送ったことがきっかけで、宰の詩が同欄に掲載されて大きな反響を呼ぶ。

著書[編集]

  • 光る砂漠――矢沢宰遺稿詩集(岡田忠雄等編、私家、1967年) - 同題のものが南北社(『光る砂漠――第一に死が』1968年)、童心社(周郷博編、薗部澄写真『光る砂漠――矢沢宰詩集』1969年)、沖積舎(『光る砂漠――第一に死が』1995年)から出版されている。
  • 足跡――矢沢宰《光る砂漠》日記編(周郷博編、童心社、1970年)
  • 少年――矢沢宰詩集(周郷博編、サンリオ出版、1974年) - 『光る砂漠』の増補改訂版
  • 矢沢宰詩抄(大久保浩二編、見附市文芸協会、1991年)

備考[編集]

関連項目[編集]