百地丹波
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 弘治2年(1556年)[1] |
死没 | 寛永17年4月18日(1640年6月7日)[1] |
別名 | 正西(諱)、新左衛門[1] |
墓所 | 三重県名張市百地氏館 |
官位 | 称・丹波守[1] |
氏族 | 大江氏流百地氏 |
父母 | 百地正永[1] |
兄弟 | 正西、正高、徳地道栄妻[1] |
子 | 正高、正行、北弥兵衛妻、新右衛門、市右衛門[1] |
百地 丹波(ももち たんば)は、安土桃山時代の伊賀国の土豪。江戸時代前期に菊岡如幻が著した軍記物「伊乱記」に記録が残る。
経歴
百地氏は伊賀国名賀郡喰代(現伊賀市)の武士で、同国名張郡から大和国宇陀郡に渡る地域である竜口(現名張市、宇陀市室生)の地頭でもあった。出自は大江氏を自称し、実際に中世において東大寺の荘園黒田荘の荘官で悪党としても活動した大江氏があり、その末裔といわれる。また伊勢国司北畠氏の末裔ともいう。
織田信長の次男織田信雄が天正7年(1579年)に伊賀攻めを始めた。「伊乱記」によれば、百地丹波は鬼瘤越に進軍する柘植保重らの軍勢と戦ってこれに勝利した。この戦いで伊賀衆は、信雄の拙い指揮もあって織田軍を撃退したものの、天正9年(1581年)に信長自ら5万の大軍を率い侵攻を開始する。これに対して丹波は諸将とともに柏原城に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに開城した(天正伊賀の乱)[2]。
史跡として、喰代の城谷と呼ばれる地区に百地氏城跡が残る。また名張市竜口には百地屋敷と称する旧家がある。物語などでは石川五右衛門は百地三太夫の弟子とされ、今日三太夫を丹波と同一視されることが多いが、根拠は特に存在しない。
脚注
参考文献
- 平松令三 編、1983、『日本歴史地名体系 三重県の地名』、平凡社
- 池田末則, 横田健一 編、1981、『日本歴史地名体系 奈良県の地名』、平凡社
- 伊賀古文献刊行会 編纂、2010、『伊賀旧考 伊乱記』、伊賀市
- 久保文武、1986、『伊賀史叢考』、伊賀郷土史研究会