瓜生外吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。125.202.14.175 (会話) による 2016年2月26日 (金) 04:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎栄典)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

瓜生 外吉
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1881年 - 1927年
最終階級 海軍大将
テンプレートを表示

瓜生 外吉(うりゅう そときち、旧仮名遣い:うりう安政4年1月2日1857年1月27日) - 昭和12年(1937年11月11日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大将石川県出身。

経歴

加賀藩支藩の大聖寺藩士・瓜生吟弥の次男として生まれる。明治5年(1872年)、海軍兵学寮に入る。1874年に設立された東京第一長老教会のメンバーになる[1]。同8年(1875年)にアメリカ留学。明治14年(1881年)、アナポリス海軍兵学校を卒業し、同年11月に海軍中尉任官。

摂津分隊長、「海門」分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大臣伝令使、将官会議書記、参謀本部海軍部第3局第2課長、防護巡洋艦「浪速」副長、砲艦「赤城」艦長などを歴任。

明治24年(1891年)、海軍大佐横須賀鎮守府海兵団長となり、フランス公使館付海軍武官、「秋津洲」艦長、「扶桑」艦長を歴任。

明治30年(1897年)10月、瀬戸内海航海中に荒天のため「松島」「厳島」と接触し船体を大破する事故を起こし、翌年4月に軽禁錮三ヶ月の判決を受けた。

復帰後、佐世保鎮守府軍港部長、「松島」艦長、「八島」艦長を経て、明治33年(1900年)に海軍少将軍令部第1局長。さらに、常備艦隊司令官を経て、第4戦隊司令官として日露戦争を迎え、仁川沖海戦で勝利。

戦後、竹敷要港部司令官、佐世保鎮守府長官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官を歴任し、明治40年(1907年)に男爵を授けられた。

大正元年(1912年)、海軍大将に昇級し、臨時博覧会臨時総裁を務める。大正2年(1913年)、予備役に編入された。

大正3年(1914年)にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列。大正11年(1922年)から3年間貴族院男爵議員を務め、昭和2年(1927年)に退役した。

栄典

人物

  • 6年間のアメリカ留学経験があり、海軍有数のアメリカ通として知られた。旧友の米国海軍長官エドウィン・デンビから軍縮会議開催の動きを知らされ、瓜生は海外情勢を視察し、海相加藤友三郎に報告を行っている。
  • 妻の繁子も新政府の第一回海外留学生としてアメリカに10年間留学した経験がある。益田孝は義兄にあたり、森恪は女婿である。長男・武雄は海兵33期出身の海軍少尉で、34期の遠洋航海に参加中、乗艦「松島」の爆発事故で殉職した。

脚注

  1. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』926頁
  2. ^ 『官報』第1921号「叙任及辞令」1889年11月21日。
  3. ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
  4. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  5. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  6. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

  • 半藤一利他『歴代海軍大将全覧』中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、 2005年。

関連項目

軍職
先代
角田秀松
竹敷要港部司令官
第7代:1905年12月20日 - 1906年11月22日
次代
伊東義五郎
先代
有馬新一
佐世保鎮守府司令長官
第12代:1906年11月22日 - 1909年3月1日
次代
有馬新一
先代
上村彦之丞
横須賀鎮守府司令長官
第12代:1909年12月1日 - 1912年12月1日
次代
山田彦八