瓜生外吉
瓜生 外吉 | |
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所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1881年 - 1927年 |
最終階級 | 海軍大将 |
瓜生 外吉(うりゅう そときち、旧仮名遣い:うりう、安政4年1月2日(1857年1月27日) - 昭和12年(1937年)11月11日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍大将。石川県出身。
経歴
加賀藩支藩の大聖寺藩士・瓜生吟弥の次男として生まれる。明治5年(1872年)、海軍兵学寮に入る。1874年に設立された東京第一長老教会のメンバーになる[1]。同8年(1875年)にアメリカに留学。明治14年(1881年)、アナポリス海軍兵学校を卒業し、同年11月に海軍中尉任官。
「摂津」分隊長、「海門」分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大臣伝令使、将官会議書記、参謀本部海軍部第3局第2課長、防護巡洋艦「浪速」副長、砲艦「赤城」艦長などを歴任。
明治24年(1891年)、海軍大佐・横須賀鎮守府海兵団長となり、フランス公使館付海軍武官、「秋津洲」艦長、「扶桑」艦長を歴任。
明治30年(1897年)10月、瀬戸内海航海中に荒天のため「松島」「厳島」と接触し船体を大破する事故を起こし、翌年4月に軽禁錮三ヶ月の判決を受けた。
復帰後、佐世保鎮守府軍港部長、「松島」艦長、「八島」艦長を経て、明治33年(1900年)に海軍少将・軍令部第1局長。さらに、常備艦隊司令官を経て、第4戦隊司令官として日露戦争を迎え、仁川沖海戦で勝利。
戦後、竹敷要港部司令官、佐世保鎮守府長官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官を歴任し、明治40年(1907年)に男爵を授けられた。
大正元年(1912年)、海軍大将に昇級し、臨時博覧会臨時総裁を務める。大正2年(1913年)、予備役に編入された。
大正3年(1914年)にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列。大正11年(1922年)から3年間貴族院男爵議員を務め、昭和2年(1927年)に退役した。
栄典
- 1889年(明治22年)11月18日 - 従六位[2]
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[3]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲一等旭日大綬章、明治三十七八年従軍記章[4]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [5]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[6]
人物
- 6年間のアメリカ留学経験があり、海軍有数のアメリカ通として知られた。旧友の米国海軍長官・エドウィン・デンビから軍縮会議開催の動きを知らされ、瓜生は海外情勢を視察し、海相・加藤友三郎に報告を行っている。
- 妻の繁子も新政府の第一回海外留学生としてアメリカに10年間留学した経験がある。益田孝は義兄にあたり、森恪は女婿である。長男・武雄は海兵33期出身の海軍少尉で、34期の遠洋航海に参加中、乗艦「松島」の爆発事故で殉職した。
脚注
- ^ 『日本キリスト教歴史大事典』926頁
- ^ 『官報』第1921号「叙任及辞令」1889年11月21日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
- 半藤一利他『歴代海軍大将全覧』中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、 2005年。
関連項目
軍職 | ||
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先代 角田秀松 |
竹敷要港部司令官 第7代:1905年12月20日 - 1906年11月22日 |
次代 伊東義五郎 |
先代 有馬新一 |
佐世保鎮守府司令長官 第12代:1906年11月22日 - 1909年3月1日 |
次代 有馬新一 |
先代 上村彦之丞 |
横須賀鎮守府司令長官 第12代:1909年12月1日 - 1912年12月1日 |
次代 山田彦八 |