牧野義雄
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、愛知県西加茂郡挙母村(現:豊田市)出身で、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。
生涯
挙母藩士の次男として誕生する。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航をして、アメリカ、フランスでアルバイト暮らしの貧乏生活を送りながら絵を描き続けた。
つらい修行期間を経て、牧野の才能はついにイギリスで花を開いた。美術雑誌の編集長、スピールマンに見いだされ、1907年(明治40年)に出版した画集『The Colour of London』は大ベストセラーになった。大都市の日常風景を描いた水彩画の数々。洗練された色使いと独創的なタッチ。その作品は、当時の大物著名人たちをも魅了し、アーサー・コナン・ドイル、ハーバート・ジョージ・ウェルズ、ウィンストン・チャーチル、ファイフ公爵夫人にも称えられた。ロンドンは霧に煙る町と云われているイメージがあるが、そのイメージが定着したのは牧野の功績とも云われている。霧に魅了された牧野は「霧のないロンドンはウェディングドレスを忘れた花嫁のようだ」という言葉を残している。彼のことをイギリスでは、「霧のマキノ」としてもてはやした。
牧野は霧を描くに当たり、1910年(明治43年)に発表した自叙伝「日本人画工 倫敦日記」で「水中に1時間入れて吸い取り紙の様になし、その濡れている内に描く。乾くに従って近景を描く」と語る。紙が十分濡れている内に遠くの最もぼやけた部分を描き、乾くに従って近くのはっきりした部分を描くことで霧独特の奥行きある情景を表現した。
また、1921年に訪英した日本の皇太子(後の昭和天皇)に謁見している。第二次世界大戦が激化したため、帰国。イギリス時代に懇意となった重光葵の援助を受け、重光家と共に疎開をしている。その縁で油絵や鉛筆画が重光葵記念館にも展示されている。
経歴
- 名古屋英和学校卒業
- 1893年(明治26年) - 渡米
- 1897年(明治30年) - 渡仏後、渡英
- 1907年(明治40年) - 画集『The Colour of London』を出版(水彩画とエッセイが掲載)
- 1908年(明治41年) - 画集『The Colour of Paris』を出版
- 1909年(明治42年) - 画集『The Colour of Rome』を出版
- 1910年(明治43年) - 英文エッセイ『日本人画工 倫敦日記』を出版。イギリス紳士録に記録
- 1923年(大正12年) - マリ-・ビロン(フランス人)と結婚
- 1928年(昭和3年) - 離婚
- 1942年(昭和17年) - 帰国
- 1956年(昭和31年) - 死去。享年87(満85歳)
主な作品
- 「ピカデリーサーカスの夜景」 1906年(明治39年) - 1907年(明治40年)
- 「夜のカールトン・ホテル玄関」 1907年(明治40年)
- 「チェルシー・エンバンクメント」 1909年(明治42年) - 1910年(明治43年)
- 「雨のBBC放送局」 1928年(昭和3年)
その他
- 日本では長く無名の画家であったが、ロンドン漱石記念館長で崇城大学教授恒松郁生の研究などで知られるようになった。
- 2006年に開運!なんでも鑑定団で『雨のBBC』に2000万円の値がついた。その価格以上に、作品と幻想的な作風に対して感銘を与え、視聴者からテレビ局や出版社に問い合わせが殺到した。
牧野関連の書籍
- 『霧のロンドン』 牧野義雄著、恒松郁生訳、雄山閣、2007年(平成19年)9月
- 『牧野義雄画集』 恒松郁生編、雄山閣、2007年(平成19年)10月
- 『牧野義雄のロンドン』 恒松郁生著、雄山閣、2008年(平成20年)3月
- 『牧野義雄画集II』 恒松郁生編、雄山閣、2008年(平成20年)3月
- 「英文牧野義雄伝」『YOSHIO MARKINO - A Japanese Artist in London』, SMP(UK) 2008年(平成20年)3月
- 『牧野義雄のパリ』 恒松郁生著、雄山閣、2008年(平成20年)春
- 『牧野義雄のローマ』 恒松郁生著、雄山閣、2008年(平成20年)春
- 『牧野義雄と重光葵』 B.シェパード著、恒松郁生訳、雄山閣、2008年(平成20年)春
関連項目
- ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー - 初めは嫌いだったが、原撫松の影響を受け好きになった。
- ルース・ベネディクト - 『菊と刀』で恥を重んずる誇り高き日本人として、彼の行動が紹介。
- 夏目漱石 - ほぼ同時期にイギリスに留学していた。
- 豊田市美術館 - 牧野の絵を一番多く所蔵している。