源時中

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源時中
時代 平安時代中期
生誕 天慶6年(943年
死没 長保3年12月30日1002年1月16日
別名 致仕大納言
官位 従二位大納言
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源雅信
母:源公忠の娘
藤原安親の娘
済政信時重時惟時朝任則孝経相
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源 時中(みなもと の ときなか)は平安時代中期の公卿左大臣源雅信長男致仕大納言と号す。


経歴

天暦11年(957年村上天皇の時代に昇殿を許され、天徳2年(958年右衛門尉に任ぜられる。

右近将監を経て、天徳5年(961年従五位下叙爵応和2年(962年讃岐権介侍従を務め、康和3年(966年右兵衛佐に任ず。康保4年(967年)守平親王(のちの円融天皇)の立太子に伴って春宮昇殿となり、左近衛少将に任ぜられる。安和元年(968年従五位上備後権介に叙任、安和2年(969年右近衛少将に任ぜられる。

天禄3年(972年正五位下、天禄4年(973年従四位下備前権守に叙任されて右近衛中将も兼任。讃岐権守備後権守播磨権守を歴任し、貞元3年(978年内蔵頭として京官に就く。天元2年(979年従四位上、天元6年(983年美作守となる。永観2年(984年)懐仁親王(のちの一条天皇)の春宮昇殿に任ぜられる。寛和2年(986年大蔵卿。6月に寛和の変が起こり、花山天皇が退位。懐仁親王が即位すると昇殿となり、藤原詮子皇太后宮権大夫を務める。同年正三位参議に任ぜられ公卿に列し、永延元年(987年左兵衛督を兼任する。

永延2年(988年美濃権守に任ぜられる。正暦2年(991年)に藤原詮子の出家に伴い権大夫を辞し、右兵衛督に転じる。

長徳元年(995年中納言になり、長徳2年(996年大納言となる。長徳3年(997年)7月5日の任大臣の儀に参会して、同日に按察使に任ぜられる[1]長保元年11月(1000年1月)賀茂臨時祭試樂に奉仕する[2]。長保2年(1000年従二位藤原彰子中宮大夫に叙任されるが、長保3年(1001年)に官職を辞任した。

長保3年12月30日(1002年1月16日)病により出家。即日(または翌日)薨去享年59。絃管・歌舞に秀でたといい、龍笛和琴郢曲などをしたという[3]

官歴

※ 以下、『公卿補任』の記載に従う。

系譜

脚注

  1. ^ 権記』長徳3年7月5日条
  2. ^ 小右記長保元年11月28日条
  3. ^ 尊卑分脈』宇多源氏