渋沢田鶴子
渋沢 田鶴子(しぶさわ たづこ、旧字体:澁澤田鶴子、1952年〈昭和27年〉 - )は、渋沢家次期当主、日本の福祉学者、渋沢栄一記念財団業務執行理事で、一般財団法人MRAハウス理事。
父は渋沢雅英[1]。祖父は渋沢敬三[1]。曾祖父は渋沢篤二[1]。高祖父は渋沢栄一[1]。(いずれも父の父方)。高祖父(父の母方)に岩崎弥太郎。曾祖父に木内重四郎。微生物学者の服部黎子は叔母[1]。政治家の木内孝胤と実業家の渋沢裕は親戚に当たる。
しぶさわ たづこ 渋沢 田鶴子 (澁澤 田鶴子) | |
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生誕 | 1952年 |
死没 | 日本・東京都 |
職業 | 福祉学者 |
配偶者 | あり |
親 |
父・渋沢雅英 母・渋沢房子[1] |
経歴
1952年、渋沢栄一の嫡曾孫の渋沢雅英の長女として生まれる[1]。祖父・敬三にとっては初孫であった[1]。
ニューヨーク大学大学院社会福祉学部およびコロンビア大学大学院社会福祉学部准教授を歴任[要出典]。
2016年2月に弟の渋沢雅明が死去してからは、雅英の後継者として振る舞う機会が増えている[要出典]。
家族 ・系譜
- 高祖父・栄一(1840年 - 1931年、子爵、第一銀行頭取、東京市養育院長) - 住所は東京市深川区福住町から、日本橋区兜町、東京府北豊島郡滝野川町西ケ原。
- 高祖母・千代(1841年 - 1882年、尾高惇忠の妹、栄一の従妹)- 栄一同郷幼馴染み、祖父・篤二の実母。
- 曾祖母・敦子(1880年 - 1943年、伯爵・橋本実梁の娘で、橋本実頴の妹) - 夫篤二の廃嫡が正式に決まった直後に敬三ら3人の子供を連れて三田綱町の屋敷を出て、数年間にわたり本郷西方町、高輪車町、駒込神明町などの小さな借家を転々とする。
- 曾祖父・篤二
- 明治5年(1872年)生 - 1932年(昭和7年)10月没。
- 栄一・千代夫妻の長男。10歳で母・千代を亡くし、父・栄一が再婚したため、姉の穂積歌子、陳重夫婦に養育される。1886年、14歳で龍門社社長となり『龍門雑誌』刊行開始。1892年、20歳で第五高等学校中退、栄一に謹慎を命じられたのち、1895年、23歳で結婚、翌1896年、敬三誕生。翌1897年、栄一により渋沢家直轄事業として澁澤倉庫部が設立され、倉庫部長に就任(のち取締役会長)。1899年、義兄穂積陳重の渡欧に随行、各国を歴訪し帰国後、第一銀行に勤務<。趣味多く、写真撮影、常磐津、都都逸なども玄人はだしの才人で、1911年には新聞に新橋芸者・玉蝶(本名・岩本イト、1887年 - 1955年)との仲が報じられる。敬三が18歳となった1913年に栄一の決定により篤二を廃嫡とし、篤二長男の敬三を嫡孫とした。篤二が一族の長となるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の篤二と、その異母弟らとの家督を巡る争いの芽を摘むための措置をとったものとも考えられている[誰によって?]
- 祖父・敬三(1896年 - 1963年、子爵、渋沢同族社長。澁澤倉庫取締役、第一銀行副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣) - 東京市深川福住町生まれ。
- 父・雅英
- 母・房子 (1929年-2017年)。
- 弟・雅明 (1954年-2016年 )[1]
- 親戚