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清原康平

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清原 康平
きよはら やすひら
生誕 (1914-01-14) 1914年1月14日
熊本県宇土郡三角町
死没 (2001-04-08) 2001年4月8日(87歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1935年 - 1936年
最終階級 大日本帝国陸軍少尉
除隊後 東肥航空工業社長
日韓貿易協会専務理事
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清原 康平(きよはら やすひら、1914年大正3年)1月14日 - 2001年平成13年)4月8日)は、日本陸軍軍人歩兵少尉歩兵第3連隊附。二・二六事件に参加、反逆罪(群衆指揮など)で無期禁固刑を受ける。その後恩赦により釈放、公職追放になるものの、恩赦の後も活躍した。2.26事件の直前、湯川智恵子と結婚して姓は、湯川康平となったが、軍関係では清原が使われている。

略歴

  • 熊本県宇土郡三角町(現宇城市)出身。
  • 旧制・熊本県立済々黌中学校(熊本県立済々黌高等学校)卒業
  • 1935年昭和10年)6月 - 陸軍士官学校(47期)卒業
  • 1935年(昭和10年)9月 - 陸軍少尉
  • 1936年 - 二・二六事件に参加し、叛乱罪で無期禁錮判決
  • 1941年12月 恩赦をうける。
  • 1942年(昭和17年) - 東肥航空工業を設立し、社長。従業員は5000名という。戦後は公職追放を受ける。
  • 1952年 - この年以来数度衆議院選挙に出馬したが落選。この年は鳩山自由党。
  • 1960年(昭和35年) - 日韓貿易協会専務理事、東洋化工専務理事。
  • 2001年(平成13年)4月8日 - 心筋梗塞のため死去[1]
    • 父は陸軍歩兵曹長、長兄は海軍軍医大尉、陸軍士官学校で同期であった朴正煕韓国大統領と親交もあり、戦後の日韓国交回復に努めた。

二・二六事件のエピソード

昭和天皇について

  • 推理作家の松本清張昭和史発掘において、清原の重要な証言を引用している[2]
  • それは「文芸春秋」1986年3月号の生き残りの決起将校の全員集合の座談会で述べられている。
    • 清原「本庄侍従武官長が天皇に上奏してその御内意をうけたらそれを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する。わが歩兵第3連隊が堂々と宮城に入り昭和維新を完成する。これがあらかじめ組んだプログラムですよ」。「宮城に入った赴援部隊が実弾をもたなかったというのもそれです。」「(中略)所が陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。陸相や真崎さんは、待てど暮らせど本庄さんから連絡がないから、自分の方から動けない。」「昭和天皇の怒りが全ての計画をホゴにしたことはあきらかです。」

原田熊雄について

1936年の二・二六事件の際、栗原安秀中尉に政治家原田熊雄殺害を命じられた清原康平少尉は、華族会館で原田を目の前にして、原田の態度があまりに惨めだったので、切る気になれず、原田不在と報告し殺さなかった。このため湯川少尉は死刑を免れたという。このことは『原田日記』には一行も書かれていない。

本人の作品

  • 魂魄(こんぱく) 講談社出版,1980年。
  • 朴議長との一時間 湯川康平 昭和37年1月1日 文藝春秋巻号 40-1(昭和37年1月新年特別号)
  • 二・二六事件と西園寺公 1967年6月文芸春秋 巻号 45(6)
  • これが”昭和維新”なのだ 著者 湯川康平、今泉義道、池田俊彦、船木繁 昭和42年2月1日文藝春秋 45-2(昭和42年2月特別号)

脚注

  1. ^ 葬儀ベストネット
  2. ^ 半藤一利『清張さんと司馬さん』(2002年、NHK出版) ISBN 4-14-080719-9 COO95 Y1400E p.187 初出は「文芸春秋」1986年3月号。