海岸女学校
海岸女学校(かいがんじょがっこう)は、アメリカ・メソジスト監督教会婦人外国伝道局[1]から日本に派遣されたドーラ・E・スクーンメーカーらによって東京に設立された女子学校で、耕教学舎・美會神学校とともに今日の青山学院の源流の一つとなった。
概要
1874年(明治7年)11月16日に津田仙の協力で麻布新堀町に女子小学校を創立した。最初の生徒は津田の息子2名を含めた5名であった[2]。翌年、三田北寺町の真言宗の宝生院の一部を借りて救世学校と称した[3]。1876年(明治9年)、築地居留地の明石町10番地に移転し校舎を完成させ[4]、21名の寄宿生と11名の通学生をもって海岸女学校となる[5]。開校時の教師はスクーンメーカーのみであったが、のちにオリーブ・ホワイティング、吉益亮子、手塚新などが加わり、日曜日にはジュリアス・ソーパーが礼拝説教を行った[5]。
1879年(明治12年)10月の大火で校舎を焼失し、一時銀座3丁目3番地の原女学校跡に移る[6]。1881年(明治14年)9月に明石町13番地に校舎を再建し、居留地に戻った。開校式には東京府知事や米国公使も臨席した[7]。
1888年(明治21年)に海岸女学校の上級生28名を青山の東京英和学校の敷地内に移し、校名を東京英和女学校と称した[8]。下級生はその後も築地にとどまっていたが、1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で築地の校舎が大破したため、同年9月海岸女学校は東京英和女学校との合併により廃校となった[9]。
翌1895年(明治28年)東京英和女学校は青山女学院と改称した[10]。その伝統は青山学院との合同(1927年)、戦後の学制改革などを経て青山学院女子短期大学に受け継がれた[11]。
脚注
参考文献
- 青山学院 『青山学院九十年史』 1965年
- 青山学院女子短期大学 『青山学院女子短期大学の歩み』 1975年