洗礼による新生
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洗礼による新生、洗礼による再生、洗礼による救い(せんれいによるしんせい、せんれいによるさいせい、せんれいによるすくい、英語:Baptismal regeneration)とは、人が洗礼によって新生するという思想である。
この教理を支持する教会は、カトリック教会、ルーテル教会、イングランド国教会、レストレーション運動である。またモルモン教によっても教えられる。使徒行伝2:38とペトロの手紙一3:21がその根拠とされる。[要出典]ルーテル教会の信仰については恩寵の手段を参照。
カトリック教会
ローマ・カトリックのトリエント公会議はエクス・オペレ・オペラート(なされた業により)洗礼が有効であるとし、その否定者を破門と定め、第七総会「秘跡についての教令」、「洗礼の秘跡について」は、「洗礼を受けるか受けないかは自由である、すなわち、洗礼は救いのために必要でないという者は排斥(アナテマ)される。」[1]と宣告している。[2]
否定論
ルカによる福音書23:43は、イエス・キリストが十字架上で、彼と共に磔にされた犯罪人の1人に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(新改訳聖書)と語られたと記述するが、この男が洗礼を受けたという記録はない。これらの聖句を根拠に洗礼による新生の教えは否定される。
旧約時代の聖徒については、新生していたが子とされる恵みを受けていないと説明される[3]。
改革派神学では洗礼による再生の理解をとらず、また人の決断による救いも教えない[4]。洗礼による救いは改革派教会によって異端であると考えられている[5]。歴史的キリスト教会は、洗礼による新生を異端として排除してきた[6]。
マーティン・ロイドジョンズはこれがローマ・カトリックによって教えられてきた誤りであり、「なされたわざによって」洗礼が有効であり、洗礼を受けることによって再生し、変えられるという思想は、偽りの思想であると述べている[7]。
プリンストン神学のチャールズ・ホッジは「洗礼を受けることを命ぜられていることは確かである。しかし此等は信仰によって服従する義務であって、救いの手段ではない。」 [8]、「洗礼によって人は神の子とされ天国の世嗣となる、というようなことを教える者は非キリスト」 [9]であるとしている。
脚注
- ^ 『カトリック教会文書資料集』1618番、H・デンツィンガー p.286
- ^ The Council of Trent
- ^ シーセン『組織神学』p.608-611
- ^ 『リフォームド神学事典』p.311 いのちのことば社
- ^ 岡田稔『改革派教理学教本』
- ^ 『一問一答』p.89
- ^ マーティン・ロイドジョンズ『結婚することの意味』p.133-135
- ^ チャールズ・ホッジ『カトリックとは何ぞや-ロマ・カトリック教と聖書的キリスト教』p.96-95
- ^ p.96
参考文献
- 『改革派教理学教本』岡田稔 新教出版社
- 『聖書の教理』尾山令仁 羊群社
- 『聖書の権威』尾山令仁 羊群社
- 『ローマ教会への手紙』尾山令仁 羊群社
- 『一問一答』尾山令仁 いのちのことば社
- 『プロテスタントとカトリックの団結ですか?』ICM出版
- 『組織神学』ヘンリー・シーセン 聖書図書刊行会