泣塔

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泣塔
地図
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泣塔(なきとう)は、日本神奈川県鎌倉市寺分上陣出424番[1]江戸時代においては相模国鎌倉郡寺分村陣出、幕藩体制下の相模国韮山代官所支配寺分村陣出)の、旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ、1基の宝篋印塔通称[* 1]である[2]。泣塔の建つ一角の地名を「陣出(じんで)」といい、その名を冠して「陣出の泣塔」とも呼ばれる。

概要[編集]

泣塔の背後にあるやぐら

全高203センチメートル伊豆石製で、塔身や基礎の部分は典型的な「関東形式」の特徴を持つ。塔の背後にやぐらがあり、中には朽ちて一部しか残っていないものも含めて14基の五輪塔が建つ。

泣塔は、非常に形が整っていること、隅飾や基壇部の四隅にある凸部の形状が珍しいこと、基壇部に刻まれた銘が明瞭に残っていることなどの特徴があるため、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき、1933年(昭和8年)8月23日付け「深沢文和五年銘宝篋印塔」名義で重要美術品に認定された[3]。同法は1950年(昭和25年)8月29日文化財保護法が施行されたことを受けて廃止されたが、同法によって認定された物件の認定効力は、文化財保護法附則の規定によって継続している。加えて1971年(昭和46年)9月11日には「石造 宝篋印塔(文和五年銘)」名義(所有者:鎌倉市)で鎌倉市指定有形文化財となった[1]

現在、2019年夏の豪雨でヤグラの崖が崩れ、安全の為、フェンス内の立ち入りはできない。

名称の由来[編集]

「泣塔」という名前の由来について詳しいことは分かっていないが、塔の後ろのやぐらが風に反響して泣き声のような音を出すことから「泣き塔」と名づけられたという説や[4]、「無き人(無縁仏の意)の塔」が訛ったとする説がある。また、一時、石塔を近隣の青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたことから「泣塔」と呼ばれるようになったという伝承もある[2]。ただし、移設されたとする青蓮寺に記録が残っていないため、移設の事実なども含めて詳細は不明である[2]

歴史[編集]

1933年(昭和8年)に調査を行った際、基壇部に以下のとおりの銘文が発見された。

原文》 願主行浄 預造立 石塔婆 各々檀那 現世安穏 後生善処 文和五年申丙 二月廿日 供養了

口語解釈例》 願主[* 2]である行浄[* 3]は、石塔婆を造立し、檀那達それぞれの現世での安穏と来世での善処を祈念しつつ文和5年丙申の年の2月20日供養した。

このことから、南北朝時代中期にあたる文和5年2月20日ユリウス暦換算:1356年3月22日)に造立されたものと推測される。塔の正式な由緒は不明であるが、鎌倉時代末の元弘3年5月(ユリウス暦換算:1333年6月頃)に新田義貞軍が鎌倉を攻めた際の一局面である洲崎合戦(cf. 鎌倉の戦い#小袋坂(巨福呂坂))の古戦場洲崎古戦場)が付近にあること[* 4]、および、塔の背後に櫓があることから、櫓に葬られた戦死者を周辺住民が弔うために造立した塔と見られている[4]。銘文のとおりであれば、二十三回忌追善法要の際に建てられたことになる。

造立されてのちの塔の歴史についてもまた、ほとんど何も分かっていない。しかし、いつの頃からか、泣塔にまつわる不吉な言い伝えが流布されるようになった。泣塔が建つ土地を所有した者は貧乏になる、泣塔を目にした者は後日幽霊と出遭う、祟りを受ける、などといった類いのものであるが、これらの言い伝えは泣塔周辺を開発から取り残すほどの影響力を持っていた。

1943年(昭和18年)、周辺の土地が大日本帝国海軍に買い上げられ、横須賀海軍工廠深沢分工場が造営されることになったが、その際、泣塔周辺(陣出)も建設予定地に含まれており、泣塔は周りの丘ごと削平される予定であった。しかし、古くからの言い伝えを知る周辺住民はこれを思い留まるよう要望した。また、塔の撤去作業中にたびたび怪我人が出たことや、付近の工事現場で死者5名を数える事故が起きたこと、夜中に異様な音が聞こえるなど、凶事・変事が様々に起きたことから、ついには当局も泣塔の破却を断念し、この一角(陣出)だけは手を着けることなく建設予定地の脇にて旧態地形のまま保存され、周辺住民によって供養され続けることとなった。翻れば、周辺にあった他の古戦場由来地はほとんどがこの時期に削平されてしまって現存しない。

第二次世界大戦後、横須賀海軍工廠深沢分工場の敷地は、1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)に払い下げられ、車両整備工場として再整備されたが、この際も泣塔については保存の方針が引き継がれ、毎年の創立記念日には供養が行われた。また、1966年(昭和41年)12月1日には、時の工場長の発案で、泣塔の周辺に杉の苗400本が植えられた。

文化財情報[編集]

  • 泣塔(なきとう)
重要美術品認定
認定名称(1943年〈昭和18年〉時点):石造宝篋印塔 俗称「なき塔」[5](せきぞう ほうきょういんとう ぞくしょう なきとう)
認定名称(現在):深沢文和五年銘宝篋印塔(ふかざわ ぶんなごねんめい ほうきょういんとう)
認定日:1933年(昭和8年)8月23日。員数:1基。所有者:(無記)。所在地:神奈川県鎌倉郡深沢村[5]
鎌倉市指定有形文化財 - 指定名称:石造 宝篋印塔(文和五年銘)(せきぞう ほうきょういんとう ぶんなごねんめい)
指定日:1971年(昭和46年)9月11日。員数:1基。所有者:鎌倉市。所在地:神奈川県鎌倉市寺分字上陣出424番[1]

拝観[編集]

かつてはJR大船工場の敷地内であったため、この塔を拝観するにはJRの許可が必要であったが、2001年(平成13年)に鎌倉市が周囲の敷地と合わせて取得したため、JRに許可をとる必要はなくなった[2]

2020年(令和2年)現在、泣塔が立っている土地は鎌倉市の所有地となっており、まちづくり計画部深沢地域整備課深沢地域整備担当の管理地であるが、泣塔の周辺はフェンスで囲われており、フェンスの入り口の鍵は鎌倉市文化財部文化財課が管理している。拝観希望者は市役所で鍵を借りる必要がある。月に1回、市民の有志「鎌倉泣塔クラブ」により清掃活動が行われており参加は自由なため、その際に拝観が可能である。

現在は、2019年豪雨の影響で、参拝はフェンスの外からのみとなっている

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 由比ガ浜二丁目1089番に所在する、鎌倉市指定有形文化財「石造 宝篋印塔(明徳四年銘)」の案内板に、「同じく14世紀後半に造立された市内の宝篋印塔としては、文和五年(1356年)銘の通称「泣塔」(寺分所在)も有名です。」とある。
  2. ^ 願主(がんしゅ)とは、願を掛ける当人。ねがいぬし。
  3. ^ 行浄は、発起人たるの名であろう。
  4. ^ 「付近にある」というが、当地(陣出)は寺分(大慶寺旧領)の一角で、寺分は洲崎郷(寺分・山崎・上町屋梶原で構成される地域で、現在の山崎と相当する地域)の一角であり、洲崎合戦は洲崎郷で繰り広げられた合戦を指す。

出典[編集]

  1. ^ a b c 建造物 - 鎌倉市指定文化財一覧” (PDF). 公式ウェブサイト. 鎌倉市 (2020年9月30日). 2020年11月23日閲覧。
  2. ^ a b c d 鎌倉に「泣き塔」といってたたりを恐れられているお墓(?)があると聞いたことがあるのですが、鎌倉在住の友達に聞いても見たことがないと言われました。まだあるんでしょうか。”. はまれぽ (2012年9月8日). 2014年9月30日閲覧。
  3. ^ 『重要美術品等認定物件目録』(思文閣、1972)、p.279。
  4. ^ a b 鎌倉風致保存会だより 泣き塔”. 鎌倉風致保存会. 2014年9月30日閲覧。
  5. ^ a b 文部省教化局 編纂 (1943年). “重要美術品等認定物件目録”. 文部省教化局 編纂. 内閣印刷局. p. 279(コマ数:145/294). 2018年3月29日閲覧。 “建(昭八・八・十二)石造寶篋印塔 俗稱「なき塔」1基「文和五年□□二月廿日供養了」ノ刻銘アリ(神奈川縣鎌倉郡深澤村所在)”

参考文献[編集]

  • 日本国有鉄道大船工場『大船工場三十年史』日本国有鉄道大船工場、1976年、16-23頁。 特に注記の無い部分の記載は本文献に拠った。

関連項目[編集]

座標: 北緯35度20分06.7秒 東経139度31分08.2秒 / 北緯35.335194度 東経139.518944度 / 35.335194; 139.518944