水谷川忠麿
水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年 - 1961年)は、日本の男爵、貴族院議員。旧姓、近衛。
経歴
公爵近衛篤麿の四男として生まれた。兄に内閣総理大臣の近衛文麿、指揮者の近衛秀麿、ホルン奏者の近衛直麿がいる。
男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す[1]。学習院高等科在学中、1921年に養母堯子を亡くした[1]。1923年、京都帝国大学哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続[1]。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加[1]。家伝の華道「御門流」の再興を図り、二科展に入選する[2]。
のち、内務大臣秘書官や大蔵大臣秘書官、貴族院議員を歴任[1]し、原田熊雄の後釜として西園寺公望の秘書になったこともあった[2]。戦後は春日大社・談山神社宮司、華道「御門流」家元を歴任した。
はじめ、近衛秀麿の次男の近衛秀健を養子に迎えたが1939年2月25日に秀健は水谷川家の籍を離れて男爵常磐井堯猷(近衛忠房の三男)の家に預けられ、最終的に近衛家へ戻り[3]、指揮者となる。秀健の長男の近衛一はバスーン奏者、次男の近衛大は弁護士となった。
秀健を離縁した後、1939年10月19日、秀麿の三男の近衛俊健を忠俊と改名して養子に迎えた[3](作曲家の水谷川忠俊)。忠俊の長女の水谷川陽子はヴァイオリニスト、次女の水谷川優子はチェリスト。
このほか、長兄文麿と新橋の芸者山本ヌイとの娘である斐子(あやこ、1931年 - )を養子に迎えていた時期もある(のち山本家に復籍)[4]。