水谷川忠麿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。WCCbot (会話 | 投稿記録) による 2016年1月16日 (土) 16:11個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Wikipedia:Bot作業依頼#「貴族院議員」の転送先変更によるリンク元修正依頼。 (oldid=58262956)による)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

水谷川 忠麿(みやがわ ただまろ、1902年 - 1961年)は、日本の男爵貴族院議員。旧姓、近衛。

経歴

公爵近衛篤麿の四男として生まれた。兄に内閣総理大臣近衛文麿指揮者近衛秀麿ホルン奏者近衛直麿がいる。

男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す[1]学習院高等科在学中、1921年に養母堯子を亡くした[1]1923年京都帝国大学哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続[1]。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加[1]。家伝の華道「御門流」の再興を図り、二科展に入選する[2]

のち、内務大臣秘書官や大蔵大臣秘書官、貴族院議員を歴任[1]し、原田熊雄の後釜として西園寺公望の秘書になったこともあった[2]。戦後は春日大社談山神社宮司、華道「御門流」家元を歴任した。

はじめ、近衛秀麿の次男の近衛秀健を養子に迎えたが1939年2月25日に秀健は水谷川家の籍を離れて男爵常磐井堯猷近衛忠房の三男)の家に預けられ、最終的に近衛家へ戻り[3]、指揮者となる。秀健の長男の近衛一はバスーン奏者、次男の近衛大は弁護士となった。

秀健を離縁した後、1939年10月19日、秀麿の三男の近衛俊健を忠俊と改名して養子に迎えた[3](作曲家の水谷川忠俊)。忠俊の長女の水谷川陽子はヴァイオリニスト、次女の水谷川優子はチェリスト。

このほか、長兄文麿と新橋の芸者山本ヌイとの娘である斐子(あやこ、1931年 - )を養子に迎えていた時期もある(のち山本家に復籍)[4]

外部リンク

脚注

  1. ^ a b c d e 大野芳『近衛秀麿』p.135
  2. ^ a b 大野芳『近衛秀麿』p.224
  3. ^ a b 大野芳『近衛秀麿』p.250
  4. ^ 大野、p.281。