正親町三条実継

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正親町三条実継
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正和2年(1313年
死没 嘉慶2年/元中5年6月24日1388年7月27日
官位 従一位内大臣按察使
主君 後伏見上皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 藤原北家閑院流正親町三条家
父母 父:正親町三条公秀、母:藤原家相の娘か
兄弟 実継実音実数秀子、女子(四辻実郷の室、四辻季顕の母)、融観了空
正親町三条公明の娘
公豊三条西公時
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正親町三条実継(おおぎまちさんじょう さねつぐ)は南北朝時代の公卿。従一位内大臣後八条と号す。父は内大臣正親町三条公秀。母は不詳とされてきたが[1]、後述のように弟実音の母と同一人物ではないかと推測できる。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

正和3年(1314年)1月5日、叙爵[2]。正和4年(1315年)3月22日、従五位上に昇叙[3]文保2年(1318年1月5日、正五位下に昇叙。同年11月21日、従四位下に昇叙。嘉暦2年(1327年)2月23日、侍従に任ぜられる。嘉暦4年(1329年)1月5日、従四位上に昇叙。同年9月26日、右少将に任ぜられる。元徳2年(1330年)1月5日、正四位下に昇叙。同月13日には右中将に転任。元弘元年(1331年)12月1日、蔵人頭に補される。同月20日、正四位上に昇叙。

正慶元年/元弘2年(1332年)3月12日、備中守を兼ねる。同年10月21日、参議に任ぜられる。正慶2年/元弘3年(1333年)1月6日、従三位に叙されるが、6月には参議を停止され右中将に戻される。11月29日、近江介を兼ねる。建武4年/延元2年(1337年)3月29日、蔵人頭に補される。暦応元年/延元3年(1338年)12月19日、参議に任ぜられる。暦応2年/延元4年(1339年)1月5日、従三位に叙される。暦応5年/興国3年(1342年)3月30日、権中納言に任ぜられる。康永2年/興国4年(1343年)1月5日、正三位に叙される。4月12日、左兵衛督を兼ねるが同月23日に督を辞任。5月12日、右兵衛督を兼ねる。康永3年/興国5年(1344年)9月23日、右衛門督を兼ねる。貞和2年/正平元年(1346年)12月29日、検非違使別当に補される。貞和3年/正平2年(1347年)11月16日、左衛門督に転任。同月27日には従二位に昇叙。

貞和5年/正平4年(1349年)1月15日、中納言に転正。9月13日、さらに権大納言に昇進。文和2年/正平8年(1353年)12月29日、按察使を兼ねる。文和3年/正平9年(1354年)11月16日、内膳司別当に補される。文和4年/正平10年(1355年)12月8日、正二位に昇叙。延文5年/正平15年(1360年)12月28日、母の喪に服す[4]康安元年/正平16年(1361年)5月14日、復任する[5]貞治2年/正平18年(1363年)8月2日、父の喪に服す。同年11月18日には復任した。

貞治4年/正平20年(1365年)12月30日、権大納言を辞した[6]。貞治5年/正平21年(1366年)2月3日、本座を許される。貞治6年/正平22年(1367年)9月29日、内大臣に任ぜられる。応安3年/建徳元年(1370年)3月16日、内大臣を辞退。

応安4年/建徳2年(1371年)5月5日、従一位に叙される。至徳4年/元中4年(1387年)、出家した。嘉慶2年/元中5年(1388年)6月24日、薨去。

家格の確立

秀子が持明院統の外戚となったことから父公秀は内大臣に任ぜられた。実継は内大臣在任期間も長く、内大臣在任時には弟実音と息男公豊が権大納言に在任している。さらに、実継は内大臣を辞してから正親町三条家の出身では初めて従一位に叙せられた。これらのことから、実継の代に内大臣に昇進できる家格が確立されたと考えられる。持明院統に一貫して忠節を尽くしてきたことに対して任内大臣、兄弟そろっての従一位叙位という処遇がなされたと見ることができる。

脚注

  1. ^ 『尊卑分脈』では兄弟姉妹の中では実音だけに母の名が記述されている。
  2. ^ 叙爵時の初名は実世であった。
  3. ^ この時に実継と改名。
  4. ^ 同時に弟の実音も母の喪に服しているため、実継と実音の母は同一人物ではないかと推測できる。さらに姉の秀子も同母姉妹なのではないかと考えられる。
  5. ^ 同日、弟の実音も復任している。
  6. ^ 按察使はそのまま。なお、息男の公豊を代わりに権大納言に任じるための辞任である。

参考文献