欽宗
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欽宗 趙桓 | |
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北宋 | |
第9皇帝 | |
王朝 | 北宋 |
在位期間 | 1125年 - 1127年 |
姓・諱 |
趙亶 趙烜(1102年2月改名) 趙桓(1102年12月改名) |
諡号 | 恭文順徳仁孝皇帝 |
廟号 | 欽宗 |
生年 |
1100年5月23日 (元符3年4月13日) |
没年 |
1161年6月14日 (紹興31年5月19日) |
父 | 徽宗 |
年号 | 靖康 : 1125年 - 1127年 |
欽宗(きんそう)は、北宋の第9代(最後の)皇帝。南宋で即位した高宗の長兄に当たる。
人物
1125年、父の徽宗が対金の外交政策に失敗し、金は宋に対して大軍をもって攻撃を行った。この事態に徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。翌年、金が開封を包囲すると欽宗は李綱を任用して防御に当たったが、賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議が成立することとなった。
しかし金軍が撤退すると、宋の官人の間では金に対して強硬論が主張されるようになり、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。この宋の違約に金は再び開封を攻め、陥落させた。徽宗と欽宗は金軍により捕虜となり(靖康の変)、1128年に韓州(吉林省梨樹県)を経て1130年に東北の五国城(黒竜江省依蘭県)へと連れ去られた。またこの時同時に徽宗の妃韋氏、欽宗の妃朱皇后など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女達が、金軍の慰安用に北に連行され、後宮に入れられた後、1128年6月には金の官設の売春宿である洗衣院に下されて金人の性奴隷を強いられた。[1]結果、朱皇后は、その境遇に耐えかねて、身を投げて自殺している。[2][3]
1127年、欽宗の弟・趙構(高宗)が南宋を興すと、欽宗は複雑な立場に立たされる。欽宗の南宋帰還が認められれば、高宗は簒奪者とされる可能性があった(実際に、1129年の明受の乱では、反乱軍が高宗即位の正統性を問題にしている)。これは、宋は歴代王朝の中でも、特に正閏論が厳格な時代であったためである。金の側も欽宗帰還を計画したが、高宗から抑留継続の要望が婉曲に出され、結局、南宋への帰還は実現しなかった。また、高宗の生母である韋夫人が南宋へ帰還する際に欽宗は、韋夫人の影響力を行使して南宋帰還を高宗に依頼するよう涙を流して嘆願したと伝わる。
不明確な死の状況
『宋史』「本紀第23」、『金史』「本紀」および『続資治通鑑』「第130巻」によると、欽宗はその後も30年以上にわたって中国東北部に監禁され続け、1161年に五国城にて62歳で没した。ただし、いずれの史書も欽宗が死去したことのみ記述されており、詳細は不明。また、欽宗の子孫は海陵王によって殺害され子孫が断絶したとされ、その海陵王が1161年に殺害されているため、年代の矛盾がある。南宋末に作成された通俗説話『宣和遺事』には正史よりも詳細に記述されている。それによると、1156年に海陵王の命令によって57歳の欽宗と82歳の遼の最後の皇帝天祚帝(正史では1128年没)が击鞠(ポロ)の競技の試合をすることになり、欽宗は落馬して馬に踏まれて死亡した。仰天した天祚帝は逃走するが、射殺されてしまった、と記載されている。当然ながら説話である以上は、どこまで事実であるかは不明である。ただ、zh:宋钦宗(中文版)では、欽宗を1156年没と記述しており、1161年は南宋に欽宗の訃報がもたらされた年としている。
南宋への帰還が実現しなかった件についての陳舜臣の意見
陳舜臣は『中国五千年』などの著作で
- 金も『欽宗を皇帝とした傀儡政権を作る』という切り札を維持するため欽宗帰還を認めたくなかったのではないか。
- 金は張邦昌や劉予を皇帝とした傀儡政権を作った実績があるが、欽宗を立てるとなれば南宋のダメージは劉予らの時とは比較にならない。
と述べている。