森永太一郎
もりなが たいちろう 森永 太一郎 | |
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生誕 |
1865年6月17日 (旧暦) 佐賀県伊万里市 |
死没 | 1937年1月24日(71歳没) |
職業 | 森永製菓初代社長 |
子供 | 森永太平(三男) |
森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日(1865年8月8日) - 昭和12年(1937年)1月24日)は、日本の実業家。佐賀県伊万里市出身。
経歴
父は常次郎、母はキク。生家は陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋だった。伊万里湾の漁業権を握る網元でもあったが、父の代には家勢も衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。親類の家を転々とする幼少時代を過ごした。やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られ、商人の心構えを教え込まれた。[1]。
横浜の陶器問屋で数年を過ごしたのち焼き物の販売を目論み、明治21(1888)年24歳の時に渡米した。
焼き物の販売を試みたが、失敗に終わった。そこで日本では誰も手掛けていなかった西洋菓子の製造に目を付け、貸工場の仕事を探したが、人種差別の強い時代のためもあってなかなか望む仕事は見つからなかった。 そんな時にスクールボーイとして住み込んだ白人老夫婦の愛に触れ、熱狂的なキリスト教徒となった。 明治23(1890)年夏に一度は日本に帰国し、故郷の伊万里で福音伝道を試みたが、全く相手にされなかった。 3か月後今度こそ西洋菓子製法の習得を目指して再び渡米し、アラメダのジョンソン・ホームベーカリーを経て、明治28(1895)年31歳の時にオークランドのキャンディー工場&キャンディーストア「ブルーニング社」に入社した。 ここでも多くの人種差別の苦難に会いながらも様々な西洋菓子の製法を身に付け、5年が過ぎ、日本に西洋菓子を普及させる時期になったと判断した太一郎は帰国の決心をした。 この時オークランドのブルーニング夫妻から「小売りをせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙な所でも済む。自分も二坪ばかりの小さな家で菓子を作り、そこで寝泊りをして始めた。」と助言を受け、明治32(1899)年6月下旬に横浜に到着した。 帰国後1899年現在の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を東京赤坂に設立した。
主にマシュマロを製造していたが、後にキャラメルを主力製品とする。
晩年はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごした。