柴田勝定

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柴田 勝定(しばた かつさだ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将通称は源左衛門尉。は後に安定柴田勝全と同一人物とする説もあるが、花押が異なるなど別人とする説が有力視されている。

生涯

はじめ織田氏の家臣であった柴田勝家に仕えた。主君の勝家と同姓であるが、血縁関係は不明。勝家の甥の佐久間勝政と共に元亀4年(1573年)に琵琶湖沖島の礼銭徴収や、下京が放火から免れた礼銭徴収を行っていることから、柴田家中ではかなり高い地位にいたと思われる。

天正3年(1575年)9月に勝家が越前に封じられてからも、西蓮寺への還住催促、称名寺への下間頼照討ち取りの褒賞、劔神社からの申状を受けるなど、奉行としての活躍をしている。天正7年(1579年)には、勝家の留守中、北庄城代を務め、一揆に囲まれた丸岡城を救援したと伝わる。

しかし『明智軍記』に拠れば、同年に持病を理由に所替えを拒否したことが勝家の勘気に触れて、柴田家を出奔した。明智光秀に転仕し、丹波柏原城を預けられたという。この頃に明智秀満の妹を妻にしたとされる(「蜷川家文書」によれば妻は斎藤利三の娘)。本能寺の変では、明智勢に属し、二条城攻めに参加し、主戦場の山崎の戦いにも兵2000を率いて先鋒として参加している。

明智氏滅亡後は堀秀政に属した。秀政の子の堀秀治の代になって、堀家の所領内(越後国内)で1万3000石を知行した。関ヶ原の戦いでは、上杉景勝の扇動した一揆勢と戦った(「上杉遺民一揆」)。しかし、老臣の堀直政と争いになって改易となり、以後は浪人したと伝わる。ただしこの山崎の戦い以降の経歴については、柴田勝全の経歴であるとされる。

参考資料