柳亭市馬

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柳亭 市馬(りゅうてい いちば)は落語家名跡。当代は4代目(三遊亭市馬から考えると8代目)。

なお現在の4代目の前に4代目(三遊亭市馬として)を襲名した落語家もいるが廃業している。

俗に初代

本名:味波庄太郎。(? - 1924年頃?) 叔父は三遊亭市馬(味波文之助)。最初は三遊亭金馬時代の2代目三遊亭小圓朝の門で金我、後に6代目(6代目だと後の3代目春風亭柳朝)ないし7代目土橋亭里う馬で里う好、明治30年代後半に3代目柳家小さんの門で小三太1910年に柳家歌太郎。1916年1月に春風燕柳に改名した。1918年3月に叔父が三遊亭市馬だったので市馬を名乗るが柳派所属だった為柳亭とした。初代文の家かしくと組んで「推量節」で売った。(叔父も「推量節」が得意だった)俗に野ざらしも得意だった為か「野ざらしの市馬」と言う。8代目林家正蔵(後の林家彦六)が関東大震災直後に安否が気になり自宅を訪れたら病気で寝込んでいたという。その後まもなく60歳ぐらいで亡くなったという。

2代目

本名:小山喜太郎。(1892年11月11日 - 戦後まもなく没。) 元は柳家左鏡が率いた左鏡連という天狗連で怪談噺や人情噺をやっていた。1918年2代目蜃気楼龍玉の門で龍若、1920年頃に三遊亭圓璃1921年4月に真打昇進。1924年5月に2代目三遊亭市馬襲名。1927年4月に柳家五蝶となる、同月には柳亭市馬。1936年5月に4代目五明楼玉輔の実子の五明楼玉の助(当時廃業し新宿で洋食店を経営)から譲り受け5代目五明楼玉輔襲名。1938年市馬に戻る。その後は不明。芝居噺、怪談噺を得意とし「夢金」を売りにした。SPレコードを6枚ほど残している。俗に「左官屋の市馬」と言う。1945年頃亡くなったという。

3代目

本名:柴田一。(1902年4月20日 - 1955年12月28日) 最初は2代目月の家圓鏡(後の3代目三遊亭圓遊)の門で月松を名乗り、1924年5月に師匠圓鏡の前名の一つ3代目三遊亭三福を襲名し真打昇進、1942年頃に元兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)の前名である4代目三遊亭圓楽襲名、1947年2月に3代目襲名。幇間大神楽、ピン芸(一口芝居)などの余芸が売りだった。俗に「ポコちゃんの市馬」と言う。

4代目

柳亭市馬 (4代目)の項参照。

三遊亭市馬

本名:岸正二郎(1913年2月28日 - 1987年1月24日) 元は天狗連出身。戦争中で噺家になるつもりがなれず軍人で海軍に所属した。戦後ようやく中年で噺家になり最初7代目林家正蔵の門下で正二郎、1951年8代目林家正蔵(後の林家彦六)の門下なった。1952年4月二つ目で正蝶と改名、1961年5月に真打昇進で三遊亭市馬襲名。後に廃業し落語協会事務員となった。最晩年は事務員も廃業し群馬県で隠居生活をしていた。

師匠彦六を敬愛していて、自身が亡くなった時に師匠同様に献体したそうである。ロセン(男根)が大きかったらしく自身も裸の写真を持ち歩いては芸人に見せびらかしていたという、その為か俗に「ロセンの市馬」と言う。出囃子は「猫じゃ猫じゃ」。

その他の市馬

  • 『為御覧噺連中帳』や『落語家奇奴部類』や寛永4年の落語番付等には古原亭や狂言亭、柳亭で確認されているが同一人物か別人物かはわかっていない
  • 本名:野末亀吉。初代三遊亭圓馬が天狗連の噺家で狂言亭市馬を名乗る。
  • 本名:佐藤三吉。2代目三遊亭圓橘が二つ目で市馬を名乗る。
  • 本名:不明。(1829年(逆算) - 1882年9月17日)初代三遊亭圓馬の門で市馬が確認されている。ぼたもち唄を得意とした。俗に「ぼたもち」の市馬と言う。
  • 本名:坪井金四郎。三遊亭圓理と言う人物が二つ目で市馬を名乗る。
  • 本名:味波文之助。(1629年 - 1907年1月4日)俗に柳亭市馬(味波庄太郎)の叔父、明治10年代に右柳(3代目春風亭柳朝)の門で春風亭?右楽となり、明治10年代末から20年代初め頃に2代目圓馬の門で三遊亭寿々馬、明治27年頃真打で市馬となる。あばた顔だったが美声を生かし音曲で「推量節」で人気を取った。俗に「ガンモドキの市馬」と言う。墓所は谷中蓮華寺。実の子が講談の6代目桃川燕国
  • 本名:田辺貞次郎。春風やなぎと言う人物が前座名で市馬襲名。

出典

  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
  • 古今東西噺家紳士録

外部リンク