林忠交

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林 忠交
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 弘化2年(1845年
死没 慶応3年6月24日1867年7月25日
改名 武三郎(幼名)→忠交
墓所 東京都港区愛宕青松寺
官位 従五位下、肥後
幕府 江戸幕府
上総請西藩
氏族 三河林氏
父母 父:林忠英、養父:林忠旭
兄弟 忠起忠旭忠交
正室:久貝正典の娘
忠弘
養子:忠崇
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林 忠交(はやし ただかた)は、上総請西藩の第2代藩主。忠英(若年寄、上総貝淵藩初代藩主)の四男。

生涯

弘化2年(1845年)、貝淵藩初代藩主林忠英の四男として生まれる。兄忠旭の養嗣子となる。嘉永7年(1854年)4月27日、兄の隠居にともなって家督を相続し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。安政4年(1857年)閏5月に大番頭、安政6年(1859年)8月には伏見奉行となった。慶応2年(1866年)1月23日、坂本龍馬を捕縛しようとするも失敗(寺田屋事件)。慶応3年(1867年)6月24日、奉行在任中に伏見にて死去した。享年23。家督は甥の忠崇が継いだ。

先代
林忠旭
林氏請西藩2代藩主
1854年 - 1867年
次代
林忠崇