来栖琴子

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くるす きんこ
来栖 琴子
プロフィール
本名 粟屋 琴子
出身地 中華民国の旗 中華民国奉天省安東県(現・遼寧省丹東市
生年月日 (1924-02-29) 1924年2月29日(100歳)
最終学歴 相模女子大学
職歴 元NHKアナウンサー
元TBSアナウンサー
著作家・ジャーナリスト
活動期間 1944年 - 1968年
ジャンル 教養・報道
担当番組・活動

来栖 琴子(くるす きんこ、1924年2月29日[1] - )は、日本のアナウンサー著作家ジャーナリスト[2]。本名、粟屋 琴子(あわや きんこ)[3]。旧姓、来栖(くるす)。

満州安東県(現・丹東市)出身[4]相模女子大学(帝国女子大学専門学校国文科[5])卒業。アナウンサーとしてはNHKとTBSで活躍。声質は澄んだアルト[6]からソプラノ

略歴・人物[編集]

出生から大学まで[編集]

幼少期から人前で話すのがとても好きで、帝国女子専門学校国文科の上級生にNHKのアナウンサーがいて刺激になり、また当時女性アナウンサーは少数で収入も大変良いと聞いたので自分もアナウンサーになることを決めた。しかし、収入の良さは、就職してから間違っていたことが分かったという。[7]

1942年、NHKの詩の朗読番組に一般出演者に応募し合格。NHKの研究会に所属して勉強したのがマイクに向かった最初である。満州・安東生まれであり、きれいな標準語を覚えたかったという。[8]

NHK時代[編集]

1944年10月、NHKにアナウンサーとして入局する[9]。その来栖の美しい音調や抑揚は、生来のものばかりでなく、詩の朗読にも培われて磨きがかけられたものだということが分かる[10]

1945年、復員男子職員に職場を譲るようNHKから求められて退職。この時には女子職員の半数以上が退職。今ならそのような理由で退職することはないが、当時は真剣に考えられたことだった。終戦により、日本がどん底に突き落とされる一方、新時代への芽生えが混乱の渦に育まれた時代でもあったため、男子に職場を譲るための女性の退職は、日本に戦時体制思想が残っていたからだろうか。[11]

1946年春に結婚しその後子供を儲け、家庭の主婦として毎日を家事に追われる平穏な生活を送っていた。1948年に夫が渡米したが、アメリカで発病しサナトリウムに入った。医療費と家計費を得るため辛いとは思いつつ深刻に悩むことなく、1949年にNHKに再入局。家計費はなんとか足りても夫への送金には苦しみ、夫から古着を送ってもらって収入の足しにしたこともあったという。[12]

NHKに再入局後は秋山ちえ子高橋のぶ子らを相手とする『会議のすすめ方』をはじめ、1950年の『クラブ問題』や、好評につき約3年間も続けられた『女性教室』等が代表的なものとなる[13]

TBS時代[編集]

民間放送局が開局できると、来栖は活動範囲の広いTBS(ラジオ東京)に1954年5月移籍する[14](中途嘱託採用。1963年6月に正社員に採用)[15][16]。その後、『料理クラブ』の司会を担当する[17]

教養番組が多かったそれまでと違う新しい趣の仕事にも積極的に取り組み[18]、当時開始されたテレビ放送にも意欲的に取り組んだ[19]

1959年から1968年まで『ポーラ婦人ニュース』の司会を第1回から全回を担当。数多い時の人話題の人が、来栖の巧みな話術にリードされながら、多くの事柄を電波に乗せて話した。落ち着いた物腰、福々しい丸顔に浮べられる微笑、さりげなくそれでいて適確な司会振りやインタビュー、次々と繰り広げられる話題に、視聴者は聴き足りぬ不満やイライラさせられる物足りなさもなく、快適な社会教室のひと時を楽しく過ごした[20]

また、ラジオの『女性ジャーナル』では、耳朶に心地よい彼女の美しいソプラノが時事の解説を明確に伝えた[21]

TBSに正社員に採用された後は、1964年3月報道局ニュース部、1965年12月テレビ報道兼ニュース取材部、1967年10月報道局テレビ報道部にそれぞれ在籍し、1967年10月31日には吉田茂国葬中継を担当[16]。1968年9月1日にテレビ報道部が解体され機構改革と243人に上る大人事異動により[22]、『ポーラ婦人ニュース』終了後の1968年9月には調査局調査部に異動となりアナウンス職を離れる[16][23][24]

調査部在籍時には社外モニター係で、モニターに番組の感想を書いてもらい、そのコピーをそれぞれの係に配布をしていた[25]。在籍時の社報には「温和な風貌の中に秘めた闘志と義侠心は、社内外の女性の信望を集め、良き相談相手として毎日忙殺されている。」と紹介されている。[23]

この間、日本女性放送者懇談会会長(1974年度)[26]等を務める。

1979年2月にTBSを定年退職[15][16]

著作家・ジャーナリスト時代[編集]

TBSを定年退職後は著作家・ジャーナリストとして活動し、老人(高齢)問題[3]、女性問題や話し方についての[27]各地での講演や執筆活動を行う[28]。東京都品川労政協議会委員も歴任[3]

出演番組[編集]

ビブリオグラフィ[編集]

著書
  • 『これからの婦人の教養』明治図書出版、1966年4月。NDLJP:3034230 
  • 人に好かれる話し方(1970年、実業之日本社)
  • 『「婦人ニュース」奮戦記』読売新聞社、1971年6月15日。NDLJP:12276401 
  • セールスマンと話術(1972年、国際興産)
  • 『女がそとで働くとき : 働く女性の喜びと悲しみとたたかいと』水曜社、1974年8月15日。NDLJP:12169506 
  • 『ともばたらき入門』水曜社、1976年4月5日。NDLJP:12169140 
  • エチケットなんて大きらい(1978年、水曜社)
  • 女性のための話し方専科(1981年、白石書店)
  • 『マイクに生きる女たち : 女性アナウンサーに未来はあるか』水曜社、1981年12月20日。NDLJP:12276020 
  • 女子学生のためのあなたを生かす就職ハンドブック(1982年、汐文社〈Select for ladies〉)
  • 話しベタがなおる本(1984年、学陽書房)- 『話しベタがなおる本―好感のもたれる話し手になろう』(1994年9月、学陽書房〈ゴリラブックス〉) に改訂。
  • 二人で話せば…人生はおもしろい(1987年、白石書店)
  • 新・女性のための話し方専科(1987年、白石書店)
  • 来栖琴子のくらしと職場のマナー(1989年、生活ジャーナル)
  • ふたりで地球を気まま旅(1989年、ミネルヴァ書房)
  • 話し上手の話し方(1990年、はまの出版)
  • ワーキングガールのマナー講座―新人からベテランまで(1990年、白石書店)
  • 女・挫折からの出発―人生半ばで出会った危機を乗り越える (1998年、ミネルヴァ書房〈MINERVA WOMEN'S LIBRARY〉)
  • くもりなき大和心の : 二・二六事件その時旧満州で(2003年、OFFICE WOL)
共著
  • 来栖琴子、武井照子『三十七年目のクラス会 : ドキュメント「本日も晴天なり」』主婦の友社、1981年12月23日。NDLJP:12260663 
関連書籍
  • 地域福祉叢書 9(1992年、静岡県社会福祉協議会)
監修書籍
  • 女性ディレクターの現場(1985年、講談社)
雑誌記事
学会誌
関連記事
新聞記事
  • 「夫婦で熱中海外旅行―13年で16回も、講演で忙しい妻、夫がプラン 現地ではケチって楽しむ」『読売新聞讀賣新聞社、1989年12月13日。

脚注[編集]

  1. ^ 来栖琴子「豊かさを求める心」『調和 : 基地と住民』陽春第23号、防衛施設周辺整備協会、東京、1987年3月、6頁、全国書誌番号:00098104NCID AA11433854“私は、二月二十九日生まれですから” と発言。
  2. ^ 主催事業 お知らせ」(PDF)『会館だより』第24号、国立婦人教育会館、1984年1月15日、3頁、2014年8月17日閲覧“全国婦人教育交流集会 日程 〈第2日〉 2月17日(金) 部会別討議(9:00〜17:00) 助言者 来栖琴子氏(ジャーナリスト)” 
  3. ^ a b c 紀田順一郎, 井上如, 勝又浩, 末吉哲郎 編『新現代日本執筆者大事典 第二巻(か〜し)』日外アソシエーツ、1992年12月21日、326頁。ISBN 4-8169-1161-8 
  4. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“私は満州の安東生れです” と証言。
  5. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、12頁“学生時代(帝国女子専門学校・国文学科出身)” と記述。
  6. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“電波を通じて耳にする来栖さんのお声は、たしかにソプラノだったと思っていたところ、肉声は澄んだアルトでした。” と記述。
  7. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、12頁“「私は小さい時分から、人前でお話をするのがとても好きでしたの。それに学生時代(帝国女子専門学校・国文学科出身)に、上級生でNHKのアナウンサーになった方がありましたので、それが刺激になったことと、当時女性のアナウンサーは数も少なく、収入も大変良いと聞いていたものですから……。でも収入の点は、就職してから間違っていたことがわかったのですよ」” と証言。
  8. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“私は満州の安東生れですし、学校も地方出身者が多かったものですから、きれいな標準語を覚えたかったのです” と証言。
  9. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“「アナウンサーとして正式に入社したのは昭和十九年の十月” と証言。
  10. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“来栖さんの美しい音調や抑揚は、やはり生のものではなく、詩の朗読につちかわれ、天性のお声に磨きがかけられたものだということが、よくわかるのでした。” と記述。
  11. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“「でも、この就職は、間もなく一年ぐらいでやめなければならなくなりました。その理由は復員男子職員に、職場を譲るよう会社から勧められたのです。この時女子職員の半数以上が退職しました。今ならこんなおかしな理由で退職する人もないでしょうが、当時は本当に真剣に考えたものです」昭和二十年という都市は、戦いの終結によって日本がドン底に突き落とされた年であり、また一方には新しい時代を迎える芽生が、混乱の渦に育まれていた時代でもありました。男子に職場を譲る為に、それまでなに一つ失敗なく働いていた女性が、退職しなければならない理由は、まだ戦時体制の残っている日本なればこそでしょう。” と記述。
  12. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、13頁“退職後の来栖さんは、昭和二十一年の春に結婚されました。御主人は二世の方で、現在は中学生のお嬢さんとお母さまの四人暮しです。普通なら、来栖さんもそのまま家庭の主婦として、毎日を家事に追われる平穏な生活をなさったことでしょう。しかし来栖さんの場合は違っていました。「昭和二十三年に主人が渡米したのですが、アメリカで発病しまして、サナトリウムに入ってしまったのです。主人の医療費と家計費は、私が働いて得なくてはならなくなりました。つらいことはつらいと思いましたが、私はそれほど深刻には考えませんでした。幸いにも二十四年に、もう一度改めてNHKに入社できましたので、家計費はどうやらまかなえたのですが、主人の送金は、やはり並たいていではありませんでした。そんなことから逆にアメリカから古着を送ってもらって、収入の足しにしたこともありましたのよ」” と記述。
  13. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、14頁“こうして、生活の為に再度NHKに入社後の来栖さんのお仕事は、二十四年の、秋山ちえ子氏、高橋のぶ子氏らを相手とする「会議のすすめ方」をはじめ、二十五年の「クラブ問題」や、好評につき約三年間も続けられた、「女性教室」等が代表的なものです。” と記述。
  14. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、14頁“そのうち民間放送局ができると、来栖さんは活動範囲の広い民間放送、現在の東京放送(前、ラジオ東京)に移籍なさいました。そして、” と記述。
  15. ^ a b c d e f g h 東京放送 編「III. 放送関係 7. アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』東京放送、2002年1月、236頁。 NCID BA56123428全国書誌番号:20288703。"1954.5<中途嘱託採用> 1963.6社員(女1) 来栖琴子[1979.2定年] R「婦人と経済(1954年)」「婦人の窓(1957年)」「女性ジャーナル(1962年)」 TV「暮らしの装い(1955年)」「婦人ニュース(1959年〜1968年)」「ゆたかなくらし(1960年)」"。 と記述。
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n 東京放送 編「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料:ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF)東京放送、2002年1月、7-8頁。 NCID BA56123428全国書誌番号:20288703。"54.5 <中途嘱託採用> 63.6社員 来栖 琴子…[64.3 報道局ニュース部][65.12 TV報道部兼ニュース取材部][67.10 報道局TV報道部][68.9 調査局調査部][79.2 定年] R「婦人と経済(54)」「こんちわ横丁」「音楽のシャンデリア」「婦人の窓(57)」「女性ジャーナル(62)」 TV「暮しの装い(55)」「女性テレビノート(55)」「暮らしのデザイン」「婦人の窓(59)」「婦人ニュース(59.11.2〜68.9.28)」「ゆたかなくらし(60)」 ☆67.10.31 吉田茂元総理大臣、国葬中継"。 と記述。
  17. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、14頁“民放での最初の受持番組が、科学調味料会社をスポンサーとする「料理クラブ」です。” と記述。
  18. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、14頁“教養番組の多かったこれまでの仕事と違って、すっかり趣の変った新しい仕事にも、来栖さんはファイトを燃やしてぶつかってゆきました。” と記述。
  19. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、14頁“ついで東京放送にテレビ局が誕生すると、来栖さんはさらにテレビの仕事にも意欲を燃やし、” と記述。
  20. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、12頁“数多い時の人、話題の人が、来栖さんの巧みな話術にリードされながら、どれだけ私達の知りたいこと、聴きたかった事柄を、電波にのせて教えてくださったことでしょう。それはまた、今後も続くのです。本当に楽しいことです。落ち着いた物腰、福々しい丸顔に浮べられる微笑、さりげなく、それでいて適確な司会振りやインタービュー、つぎつぎとくりひろげられる話題を記憶に止めながらも、テレビの聴視者はこの人の受持つ番組だけは、聴き足りぬ不満や、いらいらさせられる物足りなさもなく、快適な社会生活にひと時を過ごす楽しさを味わせられます。” と記述。
  21. ^ 「テレビとラジオ・アナウンサーの来栖琴子さん訪問記」『女性教養』、日本女子社会教育会、1961年3月、12頁“また、ラジオでは、同じ東京放送の「女性ジャーナル」で、耳朶に心地よい美しいソプラノが時事の解説を明確に伝えてきます。” と記述。
  22. ^ メディア総合研究所 編「〔検証〕テレビ放送中止事件(1953〜2005) 婦人ニュースと報道部解体 ◎1968年9月28日/TBS」『放送中止事件50年 テレビは何を伝えることを拒んだか』花伝者〈メディア総研ブックレット10〉、2005年7月8日、27頁。ISBN 4-7634-0444-X。"9月1日、TBSはテレビ報道部を解体、機構改革と二四三人に上る人事異動を発令した。"。 と記述。
  23. ^ a b 「TBS紳士録又は奇才怪才美女観音ユーモア傳 調査局調査部の巻」『TBS社報』NO.435、TBS、1976年10月12日、13頁“来栖琴子、温和な風貌の中に秘めた闘志と義侠心は、社内外の女性としての信望を集め、良き相談相手として毎日忙殺されている。” 
  24. ^ メディア総合研究所 編「〔検証〕テレビ放送中止事件(1953〜2005) 婦人ニュースと報道部解体 ◎1968年9月28日/TBS」『放送中止事件50年 テレビは何を伝えることを拒んだか』花伝者〈メディア総研ブックレット10〉、2005年7月8日、26-27頁。ISBN 4-7634-0444-X。"アナウンサー生活二〇年、『婦人ニュース』を担当してきた来栖琴子氏は調査部へ配転させられた。"。 と記述。
  25. ^ 来栖琴子「辛口のひとこと」『更生保護』第44巻第1号、日本更生保護協会、東京、1993年1月、24頁、ISSN 1343-5078全国書誌番号:00007870NCID AN00328270“住み慣れたアナウンス室から、調査部の社外モニター係になって、まだ仕事に慣れない頃の話です。社外モニターというのは、どこの放送局でもある視聴者から公募したモニターのことで、私の仕事はそのモニターさんに番組の感想を書いて貰い、そのコピーを社内のそれぞれの係に配ることでした。” と記述。
  26. ^ 歴代会長 | 日本女性放送者懇談会 SJWRT” (2014年7月3日). 2014年8月17日閲覧。 “1974年度 来栖琴子(TBS)”
  27. ^ 南さつま市立図書館 - 資料詳細(全項目)”. 2014年10月15日閲覧。
  28. ^ J.M.グイヌ、来栖琴子、家中あい「気軽にご招待・おもてなしの料理とその心 私のおもてなし」(PDF)『栄養と料理』第47巻第1号、女子栄養大学出版部、東京、1981年1月1日、84頁“来栖さんは、NHKとTBSで三十年近くアナウンサーとして活躍されたかた、退職後の現在は、執筆や講演に忙しい毎日です。” と記述。

参考文献[編集]

  • 紀田順一郎, 井上如, 勝又浩, 末吉哲郎 編『新現代日本執筆者大事典 第二巻(か〜し)』日外アソシエーツ、1992年12月21日。ISBN 4-8169-1161-8 
  • 東京放送 編『TBS50年史』東京放送、2002年1月。 NCID BA56123428全国書誌番号:20288703 
  • メディア総合研究所 編『放送中止事件50年 テレビは何を伝えることを拒んだか』花伝者〈メディア総研ブックレット10〉、2005年7月8日。ISBN 4-7634-0444-X 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]